第17話  パーペチュアルチェック

 「大丈夫か、ロゾール」

 ハッと気がつけば、ロゾールはその場で椅子に腰かけていた。働き続けて熱を持った思考は、心配そうに囁くティオの声音に遮られ、今となっては考え事をしていたのか、生前をかえりみていたのかすら分からない。

 虚弱そうなロゾールの薄い肩には、親切な誰かの上着が掛けられている。

 「…………だって繰……すが、……では感、の…………き、に」

 水の中で、音を聞いているかのようだった。神妙な顔つきで口を動かすティオの声は、その殆どが音としてすら認識できない。

 生ぬるい海水に脳を浸されているような、なんとも中途半端な不快感がある。

 周囲を見回す。レゾンはスープを平らげ、手慣れた様子でパンに溢れんばかりの具材を詰め込んでおり、アインザックはそんな彼に、なみなみと注がれたコーヒーを手渡している。

 青髪の男は残った食材でサンドウィッチなどの携帯食を黙々と作り続け、眼前に立つティオの小言は、まだしばらくは止まらないようだ。 


 これが、夢にまで見た"家庭的"な朝食の風景なのだろうか。

 なんて穏やかで、離れがたい暖かさ。まるで、ここに集った全員は元より兄弟で、今日は朝食の席に集まっていた。そんな光景が広がっている。


 「…………最低」

 しかしその言葉は、まるで心の中に直接叩きこまれるかのようだった。そして、その言葉に含まれた憎悪が、義憤が、軽蔑が……紛れも無く、ロゾールに向けられたものだと分かった。

 「「………………」」

 ロゾールに敵意を突き付ける相手は、ギルバートだった。まるで、戦渦に荒らされた野原に膝を着き、事切れた兄弟の頭を愛おしげに膝に乗せている子供のようだ。

 しかし、鋭く瞳孔を尖らせた緑の瞳は、新緑を茂らせる原生林のような荒々しさと陰りをたたえ、こちらに"兄弟カイムラルの仇を討つ"と言わんばかりの殺意を向けている。

 その姿に、ロゾールは言い知れぬ不愉快さと焦燥を覚えた。


 「貴様っ! 今すぐ離れろ!!」

 椅子に脚を引っ掛けながら立ち上がったロゾールの手を易々と掻い潜り、カイムラルを抱え上げて身を引いたギルバートは、極めつけにバチンと音を立てて伸ばされた手を叩き落した。

 ギルバートの腕の中で、柔らかい頬にまだ乾かない涙の跡を残しながら、ぐったりと身体を預けるカイムラルの頭がカクンと揺れる。意識を失っているのか、はたまた目を開ける気力すらも底をついているのか。どれだけ彼の名前を呼びかけようとも、苦痛に歪み閉じられた瞼が持ち上がるきざしは無い。

 「……どいういうつもりだ? ギルバート・ケイアス」

 震えのあまり、途切れ途切れな声音で呟く。

 ギルバート。"輝かしい契約"。その意味を持つ名を、腹の底でうごめき、湧き上がるような感情と共に噛み潰すように呼べば、もう焼け落ちた理性の燃え殻すら見当たらなかった。

 ギルバートに掴みかかったロゾールは、この時、何を叫んだのかすら分からなかった。きっと、血の気が多いエイン譲りの、卑しく、品を欠いた乱暴な言葉遣いだっただろう。


 太く屈強な腕に羽交い締めにされ、地団駄を踏むだけのロゾールに、ギルバートはその非力さを嘲笑うような視線を寄越した。

 「呑気でお気楽な"ドラゴン"に、目の前で獲物を奪われた気分はどうですか? ねぇ、気高き"蜘蛛の女王様"?」

 無邪気で幼い顔立ちに似つかわしくない、いぶしたような深い色気と、浅ましい欲望をありありと滲ませて、カイムラルの顎先に残ったひとしずくを舐め取った。

 "汚らわしい"

 その感情だけが胸を打ち、ロゾールは"天使"を奪い返そうと、無我夢中で暴れ続けた。

 「ギル! 挑発はやめろ!!」

 厳しく𠮟りつけるような剣幕で叫び、長テーブルの反対側から近づこうとしたアインザックへ、ギルバートはなんの躊躇いも無く引き金を引いた。

 鼓膜が張り裂けるような鋭い空気圧とほぼ同時に、大量の貝殻を撒き散らしたような音が、幾つも重なり合いながら落ちてゆく。

 その迷い無い発砲に、誰もが息を呑んだ。こんな和やかな雰囲気が包む食堂で。ましてや、生前は肩を並べ、時間を忘れておしゃべりにふける仲だった幼馴染アインザックに対してなど、もってのほかだ。

 「あっ、一発装弾し忘れちゃったぁ。ねぇ、次の弾倉シリンダーに、弾は入っていると思う?」

 大ぶりのリボルバーはどこかで特殊な改造がされているのか、あまり火薬が飛び散らない構造になっているらしい。

 蝋燭の明かりに照らされ、星屑のようにきらきらと煌めいて落ちてゆく粒子が、ほんの僅かだけ見える。

 まるで"宿題、忘れちゃったんだぁ"と頭を掻く子供のように眉を下げ、そして満面の笑みでその銃口を、カイムラルの顎の下に突きつけた。

 撃鉄は、既に起こされている。


 「「「________っ!!」」」

 一瞬、場が騒然とした。しかし、誰もが発砲を危惧して、指一本動かす事すら躊躇った。

 ニコニコと愉しそうにえくぼの影を深めながら、柔らかい皮膚の奥に押し込めるようにして銃口を動かし、ある一点を探りあててその手を止める。

 全員に見せつけるようにカイムラルの細く白い喉を仰け反らせ、ギルバートはピシャリと言い放った。

 「レゾンさん、銃をテーブルに置いて。あなたは要注意人物だから、念のため両手は顔の高さに上げておいてください」

 ゴロリと、両手に乗っかる程の、少し大きな石が転がる音がした。

 衣擦れの音が止むのを待たずに、"さっきの件についてなのですが"と短く前置きをして、ギルバートはロゾールの罪状を読み上げるかのように淡々と語った。


「結論から言えば、カイムラル君は見えていたでしょうね。でも、苦し紛れにでも嘘をつかなければいけない理由があった。まぁ……、その理由は後々吐いてもらうにしても、仮に彼が"わざと"あなたが怪我をするように仕向けたなら、その原因はあなたにあるんじゃないですか? ヴァニタス先生」

 目の前の景色が、カップの中に描かれたカフェアートを、ティースプーンでぐちゃぐちゃに混ぜ崩してしまったかのように、原型を留めぬまで歪む。

 (違う。私はただカイムラルの言葉で、身の潔白を証言して欲しかっただけなんだ)

 先程まで考えていたことが、思考の輪の中の戻って来た。ロゾールはずっと、一瞬でもカイムラルを疑ってしまった事を、心から悔やんでいたのだ。

 だが、彼を信じていたからこそ、即座に無実を訴えないその態度に腹が立った。

 カイムラルの困惑した表情の裏に、"ここで自分が罪を被れば、この場は全て丸く収まる"という、自己犠牲をはき違えた思惑おもわくが見え隠れしていたのだから。

 「ずっと変だなって思ってたんです。カイムラル君、激しい人見知りって言うよりも、常に何かに怯えてるみたいだなって。そしてその先には、いつもあなたの声と視線があった」

 その指摘には、心当たりがあった。

 ナイフで切り裂かれたように胸が熱く疼き、早まる鼓動に合わせてジクジクと血を滴らせながら痛むようだ。肺に穴が開いてしまったのか、どれだけ空気を吸い込もうと苦しさが和らぐことは無い。

 「気づいていないんですか? 他人ひとを見下して、弱い者を蹴落として踏みつけるようなその偉そうな態度から、支配的で自分本位なあなたの性格が滲み出ているんですよ!」

 図星を突かれた。耳を塞ぎたかった。しかし、それを背後から羽交い絞めにするティオの腕が許さない。

 「さすが、おとぎ話のモデルになった男性ひとだ。餌を撒いて、罠に掛かった憐れな天使カイムラルを捕まえてさ。あなた、この顔が好きなんでしょう? 大人しくて、タイプだったから……退屈しのぎに丁度良かったの? 片翼を喰い千切り、念入りにして、逃げられないように行き場所を壊してまで、召使いとして自分の所に縛り付けたんでしょう?」

 ギルバートはいやらしく眼を細め、自分の方へと顔を向かせたカイムラルの唇に、そっと唇を重ねるをした。

 その瞬間、ロゾールの中でナニかが壊______。

 「本当、よく躾られているよね。さっきだって、彼、この場から逃げ出そうとしただけだった。絶対にあなただけには反」

 ______刹那、ギルバートの顔面に、炭の塊のような飛来物が迫る。


 「____ぅあっ!!」

 ギルバートは、少し情けない声を漏らしながらも、すんでのところでその黒い物体を払い落す。銃口がカイムラルから逸れた隙を狙い、すかさず銃を構えたアインザックとレゾンの姿に少しだけ冷や汗を浮かべながら、ギルバートはなおも挑発的な笑みを浮かべていた。

 ロゾールはいつの間にか、ティオの拘束を力ずくで振り払い、手にした剣の鞘を床に投げ捨てている。シグナルレッドの瞳は血が滲んだように濡れ、より鮮烈な色合いとなって際立った。

 「それ、僕の剣。素手で触って欲しくなかったな。手垢が付く」

 黄色い髪の男が、心の底からの嫌悪感を丸出しにしてロゾールを見た。

 しかし、こちらの声など届いていない様子に、不貞腐れて机に突っ伏してしまう。

 逸らしてしまった銃口を元に戻せぬまま、ギルバートは眼球だけを動かして、床に落ちたロゾールの手袋を一瞥する。

 「あれぇ? 僕、ナニかお気に召さない事でも言ったかな?」

 おどけて言うはずだったその言葉を、ギルバートは飲み込んだ。これは、調子に乗って挑発しすぎたようだ。だが、後悔はしていない。

 「くっ……ふふっ。はっ…………あっははは……」

 怒りのあまり、全身の筋肉が細かく震え、吐く息が笑い声に聞こえているのだろう。

 「くっふふふふ……。あっは、ははははは。ふぅっ、くっ……。ぁあっははははははははははっ!!」

 だが、ロゾールは自分が笑っていると思い込んでいるのか、固く目を瞑り、大口を開けて食堂が揺れる程の高笑いを響かせた。

 カイムラルを人質に取られ、言い返す言葉も無いまま、一方的に散々な事を言われたのだ。しかし、ロゾールがうわずった声を掠れさせて叫んだ言葉に、誰もが耳を疑った。

 「"召使い"……だと?」

 「私のカイムラルが、誰の"召使い"だって?」

 「あの子がっ……、カイムラルが! 私の血が流れる子が、"召使い"だって!? あっはははは!! 滑稽だ、でもよく言われるさ! だが今のは、無性に腹が立った!!」

 磨かれた剣の切っ先をギルバートの目線の高さに掲げ、ロゾールは高らかに言い放つ。

 「さぁ、手袋を拾いたまえ!! 私の愛するを、"召使い"などといった言葉でおとしめたこと……その血をってあがなわせてやる!!」


 「やめろっ!!もうっ、いい加減にしてくれ!!」

 ギルバートへ決闘を申し込むロゾールに、最も激しく動揺したのはティオだった。

 「今回の件は、誰も悪く無い!! そうだろう、レゾン?! 頼む、ロゾール、ギルバート。これ以上、新たに血を流すようなことはやめてくれ!!」

 真面目で物静かな印象で固めたティオに、懇願するような声音で呼びかけられ、レゾンは肝を抜かれたように目を丸くした。しかし、やや遅れてその言葉に同意を示しながらも、困惑からか向けた銃口はギルバート達から大きく外れていた。

 「決闘だなんて、埃臭い文化だね。手袋を投げる相手くらい、ちゃんと選んだ方が良いですよ!!」

 厳めしく表情を歪め、息苦しさで薄く開かれたカイムラルの唇に、ギルバートは銃口を咥え込ませた。

 口内を犯すように緩く銃身を揺する。その瞬間、長いまつ毛が震え、取り巻く喧騒に怪訝そうな表情を浮かべながら、タイミング悪くカイムラルが目を覚ましてしまったのだ。

 「__________っぅ?!」

 驚きのあまり咄嗟に腰を引いたカイムラルを視線で制し、喉の奥まで銃口を捻じ込ませたギルバートも、ロゾールと言い争う中で、もう正気ではいられなくなっているようだった。

 四方八方で飛び交う怒鳴り声。暴力の音。混沌とする中で為す術なく冷たい鉄の味に口の中をまさぐられ、息苦しさと吐き気に耐えきれず、ボロボロと生理的な涙を流すカイムラル。

 やがて、苦しさのあまり大きくむせ込んで銃口を吐き出し、そのまま深く俯いた。

 その拍子に舌を噛んでしまったのだろうか。鮮血が唾液に混じり、銀の糸を引いて床に吸い込まれるようにして滴り落ちる。

 ぱた、ぱたた。その瞬間、異変が起きた。


 ______鋭い刃物で布を切り裂くような、耳をつんざく悲鳴が聞こえた。

 喉の奥から引き絞る尋常ではないその声に、水風船が弾けるような軽い銃声が重なる。

 泣き叫ぶとはまるで違う。その叫びは、もはや人魚や精霊などの、未知なる存在の声のようだった。

 「……正気を失った者から、取り込まれるというわけか」

 細く硝煙をなびかせる銃口を真っ直ぐに向けたまま、声音を低く落としたアインザックは、食い千切るかのような気迫でを睨みつけている。

 誰もが遅れてその指し示す先を辿って、目の前の光景を否定するように各々が"信じられない"と言いたげな反応を見せた。

 異常な叫び声をあげたせいで、声帯が上手く機能しなくなってしまったのだろう。声にならない悲鳴を途切れさせながら泣きじゃくるカイムラルの背後に、輪郭を持たない影が、触手のような細い影を何本もうごめかせていたのだ。その触手はカイムラルに触れようと伸ばされているが、アインザックの弾丸で壁に縫い留められているせいか、ほんの少しだけ届かない。

 その影から逃げるようにカイムラルを抱えて立ち退いたギルバートは、誰もいない虚空に向けて素早く引き金を引き、カチッと玩具のような音を鳴らした撃鉄をすぐさま起こした。


 暫くの間、注目の中心で黒い芋虫の集団のような影はモゾモゾとい動き続けていたが、やがて地が水を吸い込むように音も無く消えていく。

 「捜すぞ!! はまだ近くにいるかもしれない!」

 誰かが裏返った声でそう叫んだ。

 影の気配が完全に消え失せてもなお、一同は警戒を緩めることなく食堂中の影という影をしらみ潰しに探し、徹底的に先程のがいない事を確認し始めた。

 その意味も無い捜索は、レゾンが食事を終えた頃を見計らって戻って来たミルトが、ノック無く扉を開くまで続いたのだった。

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