第16話 ルー・ガルー
「あわや大惨事だ。ここでは事故に気をつけなけらばならないな」
終始カイムラルの手首を掴んだままだったレゾンは、椅子を大きく引いてテーブルから離れた場所にカイムラルを座らせて呟く。
自分達に差し迫るような"不幸"の気配を危惧しているのか、緊張で浮き出た静脈の血管や首の筋をなぞりながら、目に涙を浮かべるカイムラルの頭を撫でていた。
「事故? いいえ。これは過失を装った、紛れもない未遂事件だ」
"この話は終わりだ"と言いたげに着席を促すレゾンへ、異議を申し立てる者がいた。
ロゾールのすぐ右隣から、冬の井戸水のように痺れる冷たさを伴ったアインザックの声が、"逃がしはしない"と言いたげに誰かに突きつけられる。
「違いますか? メイト医師」
「………………え?」
その疑いの先には、カイムラルがいた。天使のように愛らしく綺麗な顔は、みるみるうちに驚愕から吹き零れる怒りに染まる。
「ご冗談を!! 貴方は、俺がロゾール先生を傷つけようと、わざと事故を起こそうとしたと言いたいのですか!?」
「えぇ」
珍しく怒りを
途端、静観する誰もが疑念に目の色を変えた。
仲裁する者がいなくなったことを追い風に、アインザックは畳みかけるように疑念を投げかけた。
(どうして、自身の潔白を主張してくれないんだ)
声にならない声を噛み殺し、弁解の言葉を探して瞬きを繰り返す姿に、ロゾールの胸はギリギリと粗い麻縄で締め付けられたように痛んだ。
たった一度だけでいい。「それは言いがかりだ。本当にただの事故なんだ」と、アインザックの疑いを真っ向から跳ね除けて欲しかった。
たとえその言葉が真実ではなかったとしても、ロゾールはカイムラルを盲目に信じ、彼を庇うような発言を選んだだろう。
そうでもしなければ、いつもは冷静沈着で周囲の細やかな変化に気がつく彼が、"うっかり"と危険を見落とすなんて不自然だと。本当に、カイムラルが自分に危害を加えようとしたのではないかと、疑いを向けてしまうのがただ嫌だった。
もしくは、かつてのロゾールがそうだったように、泣いて喚いて手当たり次第に物を投げ散らし、全身全霊で疑いをかけられた怒りと悲しみを表現してくれれば、誰かが助け舟を出すようなひと言を繋いでくれたのかもしれない。
「メルセリオ、少しいいか。募る不信感を抑えきれないのは分かるが、少し落ち着いて彼の言葉を待ってみよう」
「総統、ですが……」
「頼む」
アインザックは相変わらずの無感動そうな表情を浮かべており、すぐ傍まで迫った波乱の予感にも酷く冷静でいるように見える。
しかし、この理性的で落ち着き払った姿は、見掛け倒しなのかもしれない。
その証拠に、瞳孔が大きく開かれた血の色が透ける彼の瞳は、普段よりも赤く濡れて見えるからだ。
「……本当に、見えていなかっただけなのか?」
カイムラルの両肩を軽く揺すり、自分へと注目を向けさせたレゾンは、わざわざ床に両膝をつき、まるで幼い子供に問いかけるような声で囁いた。
身体を強張らせるカイムラルは、小さく唇を震わせるだけでその質問にすら声をあげない。
答えたくないのか、もしくは応えられないのか。
どちらにせよ、もう限界だ。ロゾールの胸の奥で膨れ上がった疑念は、もう見て見ぬふりなんて出来ぬ程に大きく育ってしまっていた。
「カイムラル」
血の気が引いて感覚の無い足に、上半身を乗せるようにしてゆらりと立ち上がる。
身体から遅れて頭だけを持ち上げると、焦った様子で吐き出されたカイムラルの言葉を遮って言った。
「脳が見えていないと判断する"盲点"の範囲は、個人差こそあれどごく僅かなものだ。君はその現象の原理をよく理解しているし、失った右側の視野を補うためにも、視界には常に気を使っていた。そうだね?」
まるであらかじめ用意されていた台本を読んでいるかよような、抑揚の無い声音だった。
"咄嗟のことで注意が疎かになり、燭台が消えたような錯覚を起こしたのだろう。どこもかしこも薄暗くて危険だ。次から気をつけなさい"
そう言って、この出来事に無理矢理だろうと終止符を打ってしまえばよかったものを。どうしてだかロゾールはその言葉を選ばず、平常を装う口調は、段々と問い
目の前の光景は、虫に喰われた羊皮紙のように穴が開き、徐々にその範囲は広くなっていく。
「釈明や発言の撤回なら、慎んで聞こう。無意味な時間稼ぎが目的では無いのなら、君の声で肯定なり否定なりを示しなさい。黙っていれば憶測だけが先行し、君の罪が確定してしま」「もうやめてっ!!」
視界が完全に喰い尽くされる寸前、ロゾールの言葉を塗りつぶすように、ギルバートが耳に刺す金切り声を響かせた。
キィンと脳を貫く不快な声音に表情を歪め、ギルバートに文句を言おうとしたその口を、左隣に立つ、かじかんで冷たいティオの手が塞ぐ。
その腕に爪を立て、手を口元から引き剥がしたロゾールは、そこで彼らの意図に気が付き顔を青くした。
カイムラルが、取り乱していたのだ。
全体重をかけて椅子に押さえ込もうとするレゾンとギルバートの頭を鷲掴み、腕力だけでふたりの頭部をもぎ取ろうとしているようだった。
3人分の体重に耐えられなかった椅子が崩れ、ガクンと床に膝を着いたカイムラルの一瞬の隙を、レゾンが見逃すはずはない。
折れた椅子の脚を背中に
ロゾールからは床に伏せたカイムラルの姿は見えないが、煮え立ったスープが鍋の蓋を弾き飛ばそうと暴れているかのように、懸命に押さえつける3人の身体が上下左右に揺れ続けている。
「助けて! このままじゃ振り切られるよ!!」
3人のうちでは最も小柄で、カイムラルの利き手である左側を押さえたギルバートは、激しい抵抗にもはやしがみつくだけで精一杯の状況だった。
それでも、彼だって軍人だ。袖口から覗く腕の太さや筋肉のハリを見る限り、走る事すら滅多に無い華奢な体躯のカイムラルに、ここまで力が及ばないなんて普通ならば考えられない。
「まだ子供だからって、アルカ人の身体能力を舐めてかかったら危ないよね」
何があっても本を読み進める手を止めようとしなかった黄色い髪の男も、さすがにこの異常事態に助太刀するべく、読んでいたページに折り目をつけて席を立つ。
亀が甲羅に引っ込むように身体を丸め、上半身を持ち上げてレゾンを振り落とそうとするカイムラルの足を引っ張り出し、"よっこらしょ"と呟きながら膝裏に腰掛けた。罠にかかった獲物を見るかのような
「大人しい子で良かったよね。そうじゃなきゃ、今頃いくつの頭が床を転がっていたと思う?」
そんな血生臭い発言と共にひとり、ふたりと指差す黄色い髪の男は、何が楽しいのかケラケラと乾いた声を転がし、ひとりで腹を抱えて大笑いしていた。
「こんなか弱い坊ちゃんひとりに、筋肉まみれの男5人が苦戦するなんておかしいだろ……」
奥の部屋で食器を片付けていたであろう青髪の男も助けに入り、そこでようやくカイムラルの身動きを封じるに至る。
それに引き換え、思わず駆け寄ろうとしたロゾールは、アインザックたったひとりによって無力化されていた。なんと嘆かわしいことだろうか。嫌という程の力量差を見せつけられて、どんよりと心を満たす無力感に赤い瞳を曇らせる。
「アルカ人にしては弱い方です。この場においては、幸いとしか言いようがない」
アインザックに腕を引かれ、息を荒くして集まる人だかりの中心を見たロゾールは、罪悪感に顎を震わせる。
布を噛まされ、ほどけかけた結い髪を振り乱しながら抵抗を続けるカイムラルは、猟銃を向けられ怯える狼のようだった。
「……すまない」
痛々しいその姿に目を細めたアインザックは、ぽつりと呟く。
隠しきれなかった疑いが、カイムラルをここまで狂わせ、豹変させてしまう呪いとなったのだ。
ロゾールも責任の一端を感じ、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、その光景を瞬きすら惜しんで目に焼き付けていた。
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