第12話  愛情の形

 漆黒の衣装をまとい、髪型を整えたロゾールは、最後の仕上げにと化粧をほどこしていた。

 机に道具を並べ、慣れた手つきで不健康な青白い肌に色を重ねてゆく。

 生前のロゾールが化粧を欠かさなかった理由は、自分の美しさを引き立たせるという目的よりも、顔を変え、素性すじょうを隠すためだったと言った方が正しい。

 だからこそ、仕上がりは派手なくらいが丁度いいのだ。

 一目見たら、まるで脳裏に刻みつけるように鮮烈で、華々しい印象が欲しかった。

 長年にわたって試行錯誤を繰り返し、その日の天候や季節に合わせて細かく見せ方を調節するのは、どれだけ慣れても毎日のように苦労したものだ。

 それでも、ロゾールが生涯にわたり化粧を続けられた理由は、純粋に楽しかったから。

 特に自身の顔が、この手で別人のように変わってゆく様子は声をあげる程に面白いようで、それは幼い頃に魔法使いに憧れたロゾールの願望を充分に満たしてくれるものだった。

 もとより中性的な顔立ちは、より女性的に。えて左右非対称に表情を整えて、ロゾールの顔の右側に視線を誘導する。その理由は、左頬に薄く残る傷跡が、万が一にも見つかってしまわないようにするためだった。


 やがて鏡像のロゾールは、化粧の出来栄えに満足そうな笑みを浮かべた。

 衣装と共に用意されていた蜘蛛を象るピアスは、瞳と同じ色の雫の石を大切そうに抱きながら、しゃらしゃらと涼やかな音を立てて揺れている。

 ガタンと椅子を大きく揺らして立ち上がった彼は、レースを重ねた衣装の裾を翻して、くるりとその場を回ってみた。

 細かく施された、銀糸の刺繍の出来栄えは実に見事だ。

 曲がりなく均等な縫い目を見れば、仕立てた者がひと針ずつ丁寧に作り上げた一着だと分かる。

 生前のロゾールも裁縫や刺繍を趣味としていたが、これ程までの技術と正確さは、生涯それを生業なりわいにしていたとしても習得は難しい領域の腕前だ。


 衣装と一緒に用意されていたかかとの高い靴を履く。

 厚底で足首がしっかりと固定されるように、工夫が凝らされているようだ。

 柔らかい革の履き心地は良いのだが、鉛が仕込まれているのかと思うほどに重く動きにくかった。

 (……なるほど)

 再び鏡を見遣みやったロゾールは、靴ひとつで印象が大きく変わった自身の姿に驚いた。

 用意された衣装を全て正しく着用すれば、まるで一枚の肖像画のように美しい立ち姿になるようデザインされているのだろう。

 女性的に仕上げたはずの化粧が、何故かロゾールの男らしさに磨きをかけているのが不思議だった。


 身支度を終えたロゾールはかばんを開き、あの銀のモノクルが見当たらないか、もう一度だけ荷物の中をまさぐった。

 "やめておけ"と、頭の中で声が響く。傷つくだけだと、虚しくなるだけだと分かってはいても、諦める訳にはいかなかった。

 鞄を握る手の甲に、ひとしずくが跳ねた。

 (……いけない。化粧が崩れてしまう)

 込みあげる涙を押し戻すように天井を仰ぎ、指先で慎重に目元をなぞる。

 一通り、忘れものが無いかは確認した。ひとりぼっちのままでは、またいつ泣きたくなってもおかしくはない。


 「カイムラルは、まだ部屋にいるのだろうか」

 慣れない靴の履き心地に戸惑いながら、ロゾールは部屋を出た。

 招待状に同封されていた銀の鍵を手に持っていたが、わざわざ施錠する手間は無いらしい。

 その時、ロゾールの足元でバサリと本が落ちるような音がした。

 一体どこから落ちたというのだろうか。鞄が開いていない事は、ついさっきに確認したばかりだ。

 ぱらりとページをめくり、余白にまでびっちりと文字の書き込まれた手帳を

懐かしく眺める。

 (1883年……? なぜこんな古いものが、鞄の中に?)

 手帳が示す年月日に首を傾げながら、ロゾールは何気なくそれを鞄に仕舞い込んだ。

 あるページにつけられた折り目の意味を、この時のロゾールは何故か思い出せずにいた。



 今度は確かな足取りで廊下を進み、エントランスホールへと続く大階段に差し掛かる。

 階下を見下ろすと、ラフな格好で床に胡坐あぐらをかいて座り込み、大きなスケッチブックに鉛筆を走らせる男の後ろ姿が見えた。

 寝癖がついたままの葡萄ぶどう色の髪は、一部分だけ指でいたみぞがくっきりと残されている。

 不思議な事に、その男からだらしなさは感じられない。背筋を伸ばした堂々たる後姿は、容姿や服装だけでは判断できない、男の"正体"を訴えかけているようだった。

 遠目に見ただけでもすぐに分かる。器用に複数の鉛筆を持ちえて形作られてゆく図面には、ホールにたたずむ像が描かれていた。

 その時には既に仕上げの段階に差し掛かっており、スケッチブックを右へ左へ傾けながら筆を走らせる。

 みるみるうちに平面的だった絵は立体的になり、実物と全く変わらない様で描き出されていた。


 ロゾールの生きた時代は当時の新技術であったカメラによる肖像画撮影の需要が高まり、油彩画を含めた"絵画"の価値は著しく低下していた。それに伴い、"画家"の社会的立ち位置や注目度は低くなり、やがて絵を描くこそすらも珍しい行為となってしまったのだ。

 (こんなに楽しそうに絵を描く人は、初めてだ)

 ロゾールが知る画家の姿と言えば、皆一様にどこかやつれた表情をたたえていたものだ。

 深く染みついた目元の隈をなぞる指は細く冷たそうで、目を離したらフラッとどこかへいなくなってしまいそうな風貌の者も多かった印象が強い。

 多くは口数が少なく人見知りだが、ひとたび音楽や文学などの芸術に対する話を始めれば、一般人を凌駕する熱量の籠った言葉は"芸術家"のそれと言うしかないだろう。

 夢中で筆を走らせる男には声をかけず、来た道とは反対側の廊下を目指して階段をのぼった。

 廊下に差し掛かる直前、ロゾールはふと立ち止まり振り返ると、「絵を描くのが楽しくて仕方が無い」と語る男の背中が、蝋燭の明かりよりも眩しく見える。

 高々とスケッチブックをかかげ、絵の出来栄えに満足そうな男の様子に、ロゾールは優しく頬を緩ませてその場を後にしたのだった。


 そのまま廊下を進み、白い塗料でチェス駒のビショップが描かれた扉の前で足を止める。両隣の扉の絵柄を何度も確認して、緩く拳を握った。

 「カイムラル、私だ」

 ______ノック音を4回響かせて、ロゾールは声をかける。

 途端、扉の向こう側からバタバタと慌てたような物音が聞こえ、"しまった"と言いたげなカイムラルの声に遅れて、何かが倒れた音がわずかに扉を揺らした。

 「大丈夫かい? カイムラル。いいから一度、扉を開けなさい」

 慌ただしい室内の光景を想像しながら、ロゾールは苦笑気味にもう一度だけ扉をノックする。

 少しの間を置いてドアノブが揺れ、薄く扉が開かれる。

 その隙間から金色の髪がこぼれ、カイムラルはひょっこりと目元だけをのぞかせた。

 「……あの、服が上手く着られなくて、小物も多くて。もう少しだけお待ちいただけないでしょうか」

 チラリと部屋の中をのぞけば、倒れかけたコートラックが中途半端に壁にもたれかかっている。床に落ちた片方だけの手袋と言い、からまってぐちゃぐちゃになった靴紐と言い、ひとりで悪戦苦闘していたカイムラルの姿が手に取るように分かる。

 震える声は今にも泣きだしてしまいそうな程にか弱く揺れ、しょんぼりとうつむけた表情は、困惑に強張っていた。

 それでも彼は扉の後ろに身体を隠し、意地でも惨状さんじょうを見せたくないのだろう。

 ロゾールは片腕がやっと通るくらいのわずかな隙間にかばんを突っ込み、駄目押しに靴をはさませて扉が閉じられない状況にしてから言った。

 「カイムラル。君はもう少し、誰かに助けを求める方法を覚えた方が良いだろう。ひとりで出来ることには限度がある。……例えば、この袖口そでぐちのリボンなんかは特に」

 狼狽うろたえるカイムラルの隙を見逃さず、半ば押し入るようにして扉をこじ開けた。

 太ももあたりまでずり落ちてしまったスラックスを手繰り寄せ、カイムラルはあたふたと視線を右往左往させている。

 「大丈夫だ。私に任せなさい」

 カイムラルの肩に両手を置いたロゾールは、期待に瞳を輝かせて満面の笑顔を咲かせた。



 「素晴らしい! 装飾品も多く煌びやかだが、しつこくない配置が上品だ。美しい髪色がより輝いて見える。それに、ボタンも飾りも絵柄も、奇数を意識して作られているのかな? 美しさは引き算というが、これがその象徴か。縫製ほうせいも丁寧で、文句のつけようが無いとは正にこのことを言うのだな」

 ソファーに腰掛け、難しい表情で衣装を纏ったカイムラルの頭からつま先までを熟視じゅくししていたロゾールは、スタンディングオベーションでその姿を称賛した。

 衣装を仕立てた者は、刺繍が好きなのだろうか。カイムラルの微かに青みがかった上着には、雪の結晶を象った模様が細かく縫い込まれている。

 所々に薄いレースを重ね、シャツのえりにも模様を刻み、飾りボタンも惜しみなくあしらわれていた。

 「やはり、カイムラルは髪を編み込んだ方が良いな。顔の周りがさっぱりとするし、影がより髪色に深みを出してくれる」

 肩よりも少し長く伸びた髪を低い位置で結び、一部を編み込んだ髪型に違和感があるのか、カイムラルはしきりに前髪や結び目をいじっている。

 義眼ぎがんめた右目側を隠せない事に抵抗があるのか、長くない前髪を必死に掻き集めて寄せている。

 そんな彼の頬に手を添え、無情にも前髪を整え直したロゾールは言った。

 「無駄な抵抗はやめなさい。変に隠そうとすればかえって不自然だ」

 カイムラルの義眼は、光の当たり方によって瞳孔どうこうが収縮して見えるように試行錯誤を繰り返した、とある人形師の最高傑作だ。

 なんとなく視線が合わないような違和感を、極限まで感じさせないように様々な工夫がらされている。

 その技術を心から信頼しているロゾールは、声高らかに言い放つ。

 「それにもし、真っ向からそんな不躾ぶしつけな発言をするやからがいたならば、この握りこぶしで"ご挨拶"を食らわせてやればいいだけさ」

 グッと握り締めた拳を身体の中心へ引き、何が楽しいのか声をあげて笑うロゾールの姿に、しおしおと眉を下げたカイムラルはぼそりとつぶやいた。

 「……やっぱり、そういったところはエイン先生との血の繋がりを感じますね。あっ、おふたりは実兄弟ではないから、魂の繋がり? 少し、うらやましいです……」

 「あんな粗暴そぼうで腹の底が知れないエインと、こんなにも私が似ているとでも言いたいのかい? 非常に不本意だ。もう一度よく考え直す事を願いたいかな」

 ピタリと笑うのを辞めたロゾールは、冷たい口調で吐き捨てる。

 普段から高貴な家柄の生まれを感じさせる立ち振る舞いを見せているが、ふとした言動にエインの影響を大きく受けていると、ロゾールは気がついていないのかもしれない。

 きっとこれが、兄弟というものなのだろう。

 カイムラルはロゾールのその言葉に肯定こうてい否定ひていも示さず、曖昧あいまいに微笑んで「よく考えておきます」とだけ言った。


 「さて、準備も整った。忘れ物は無いだろうね? そろそろ食堂に向かおうか」

 意気揚々とソファーを立ったロゾールは、足早に部屋を出て急かすような視線を投げかけた。

 「お待ちを。ロゾール先生」

 ロゾールの背中を追って部屋を出ようとしたカイムラルは、ふと何かを思い出したのか、大慌てで化粧台の前へと引き換えす。

 白いハンカチに包まれた何かを大事そうに持ち上げ戻ってくると、壊れ物を触るかのように優しく、ロゾールの右頬に触れた。

 「これで完璧です。世界一の美貌びぼうは、きっと貴方あなたのものでしょう」

 ロゾールはむせかえるような激しい感情と驚きに、小さく身体を震わせた。

 視界が歪み、物が二重に見え、何をするにも不便だった右目が、左目と殆ど変わらない景色を映していた。

 逃げるように引っ込められたロゾールの右手を、カイムラルがそっとの存在を確かめさせるように導く。

 そのままロゾールの上着を拡げ、内ポケットに仕舞い込んでいた折り畳み式の銀の手鏡を取り出し、開いて見せた。

 「…………っ!!」

 ロゾールは声にならない悲鳴をらし、パッと口元に手をあてがう。

 「カイム、ラル……。これを、これは……一体どこで」

 心の底から諦めきれなかったモノクルが、そこにあった。

 それは紛れも無く、エインがある時の誕生日にロゾールに手渡した、世界でたったひとつの愛情の形だった。

 綺麗にほどこした化粧が崩れる事など、この感情の前では些細ささいな問題にもならない。

 とめどなく滴り落ちる大粒の涙を拭いもせず、「ありがとう」と繰り返すロゾールに、カイムラルは天使のようにあわく微笑み返すだけだった。


 その後、ロゾールがどれだけたずねても、カイムラルはモノクルを見つけた場所を教えてはくれなかった。

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