第10話 白紙の招待状

 パチンと暖炉だんろの火にくべまきぜる音と、古いゼンマイ仕掛じかけの柱時計が、規則的きそくてきに時間を刻む音が耳についた。

 ロゾールがフッと意識を持ち上げると、見慣れた天井が目に入る。

 「お目覚めですか?ちょうど今、お茶をれたところですよ」

 頭上から、カイムラルの声が聞こえた。どうしてだか、荒波あらなみに揉まれる小舟のようにグラグラと揺れる意識を支えながら、眼球がんきゅうだけを動かして彼の姿を探す。

 ぼんやりとかすむ視界に左斜め上から人の輪郭りんかくが映り込み、重力に従って落ちてきた髪が、ロゾールの頬をくすぐるように撫でた。

「悲しそうなお顔をされていました。今日は、どんな夢を見ておられたのですか?」

 ソファーに横たわるロゾールの顔を、深く腰を折ってのぞき込んだカイムラルは、心配そうに首をかしげると、おもむろにロゾールの右目に手を伸ばした。

 左手の親指の腹で優しく目元を拭うと、すくそこねたひと雫が頬を転がり落ちて行く。


 (長い夢を、見ていた気がする……)

 奇妙な夢だった。棺の中で目覚め、見知らぬ館の中を彷徨さまよい歩き、謎の招待状がどうだとか……。

 お喋りで馴れ馴れしい男にからまれ、寡黙かもく自称じしょう教師にいきなり問答もんどうを投げかけられたりと、とても忙しい夢だった。

 高熱に浮かされた後のようにぐったりとする上体じょうたいを腹筋だけでは支えられず、すかさず肩を抱いてくれたカイムラルの手を借りて、ようやくソファーに深く腰を掛け直した。

 勝手知ったる我が家の光景に安堵あんどして、ホッと胸を撫で下ろす。

 ロゾールがいたく気に入っている暖炉前の安楽あんらく椅子いすの上には、ペンをはさんだままで中途半端に開かれた、ロゾールの日記が置きっぱなしになっていた。

 空気が乾燥しているからか、張り付いたような喉の痛みを飲み込み、声帯せいたいの震えを確認しながらかすれた言葉をつむぐ。

 「ぁ……、新しく処方しょほうされた薬の、おかげかな。味が悪いからお湯に溶かして飲むのは少しつらいけれど、その分だけ良く効くね。最近はあまり夢を見ていなかったから、すっかり油断していたよ。今日は、久々に教会に行こうか」

 ロゾールの視線は、壁に張ったカレンダーが示す年月日を見て凍り付いた。

 冷や水を浴びたようにえわたる思考が、夢と現実を明確めいかくに区別する。

 「ぁ、あぁ……。なぜ、こんな……こんっ、な」

 わなわなと唇を震わせるロゾールの異常な様子に気がついたカイムラルは、その視線の先を辿たどって引きった悲鳴を漏らした。

 ______1907年12月25日。

 生前のロゾールが生きて迎える事を心に誓い、そして叶えられなかった、愛する我が子の誕生日だった。


 「あ、ああぁ…………。うっ、わぁぁあああああぁぁぁあああっ!!」

 癇癪かんしゃくを起したロゾールは、立ち上がるなり傍にあったテーブルをひっくり返し、カイムラルが用意したふたり分のティーセットを床にぶちまける。けたたましい音と共に白磁はくじのティーポットが真っ二つに割れ、源泉げんせんのようにあふれ出た紅茶が濃い湯気を立ちのぼらせながら、瞬く間に毛足の長いカーペットに吸い込まれてゆく。

 「おやめくださいっ!! こんな事をしても、傷つくのは貴方あなたです!!」

 手当たり次第しだいに物を投げつける半狂乱はんきょうらんのロゾールを羽交はがいめにして押さえつけ、カイムラルは必死に正気を取り戻すようにと言葉をかけ続ける。

 それでもなお暴れ続けるロゾールは、カイムラルの体重が上乗せされた身体を力任せに振り回し、遠心力えんしんりょくを利用してふたり分の身体を床に叩き付けるようにして倒れ込んだ。

 ソファーを巻き込んで転がり、何かに頭を強くぶつけたロゾールは、ジンジンと焼けるように熱く痛む患部かんぶを押さえながら、ふらりと意味も無く立ち上がる。

 いきおいのついたロゾールの下敷きにされたカイムラルは、その衝撃しょうげきからなのか意識を失っているようだ。

 ジクジクと湿しめっぽい傷口から、生暖かい血液がとめどなくあふれて服を汚す。

 傷だらけの壁に映し出された揺らめく影と、背中に迫る炎の気配に振り返る。

 投げ散らかした本や、なぎ倒された家具に引火した暖炉の炎が、あっという間も無く部屋の壁をうように燃え広がっていた。

 少しばかり落ち着きを取り戻したロゾールは、背中を壁に預けたまま、ズルズルとくずれるようにへたり込んで頭を抱え込む。


 エントランスホールを後にした出来事が、走馬灯そうまとうのように脳裏のうりを駆け抜けてゆく。

 一部のマッチが湿っていたのか、なかなか火がともらず足止めを食らっていたロゾールは、首の後ろにのしかかる疲労感に耐えられず、フッと呼吸をめるように昏睡こんすいしてしまったのだ。

 息を切らせながら先を急ぐカイムラルの背に揺られながら、彼が目覚めた部屋に辿たどり着いたことはうっすらと覚えている。


 そして、夢を見ていた。


 "余命半年"と告げられたロゾールが、エインの余命予想を大幅おおはばに超えて、我が子の誕生日を生きて迎えるな夢だった。

 「誰かの支えが無くたって、このとおり私は立って歩けるよ。さぁ、今日は_____が望む場所に行こう」

 走っても、飛び跳ねても、呼吸は苦しくない。心臓は脈を途切れさせずに、力強く動いている。

 「今日は丁寧ていねいに髪をみ込んで、素敵な髪飾りをつけようか。化粧は少し控えめに。ほら、"世界で一番、美しい"」

 繊細せんさいな動きとれが必要な髪型でも、怖くない。その人の表情を最も美しく整える化粧は、ロゾールの本職だ。

 しかし、夢の中のロゾールは泣いていた。

 どんなに治療にはげんでも、神にもう一度の奇跡を願っても、決して手の届くことはない"夢"だと、他でもないロゾールが一番よく理解していたのだから。


 「なんて、残酷な……」

 ロゾールがそうつぶやいた時には、炎はすでに彼の足元まで迫っていた。

 充満じゅうまんする黒い煙が、泣きらして充血した目にみる。もう、右も左も分からない。

 バタンと、倒れる。

 ……息を吸う事すら億劫おっくうだ。

 …………視界が黒に塗りつぶされた。

 ………………脈が止まる。

 ……………………そして、何も無かった。



 ココン・ルティの鐘が鳴る。

 いつから意識を取り戻していたのかは分からないが、眼球が転げ落ちてしまいそうなほどに目を見開いたロゾールは、マリーゴールドの毛布をき散らしながら飛び起きた。

 脱ぎ散らかした上着も、床にばらいた手荷物も、ぐちゃぐちゃに引きちぎった花の残骸ざんがいも、最初から無かったかのようだ。

 像にぶつかりった傷も、破けたそでも、頬を伝った血の一滴も見当たらない。


 ロゾールはそっと胸の前で両腕を交差させ、前髪の先を細かく震わせた。

 人は"生"を前提ぜんていとすることで"死"を認識できるのだとすれば、すでに肉の器を失った"魂"にとって、"死"のはどのような意味を持つというのだろうか?

 ロゾールの導き出した仮説かせつは、いたって単純だ。

 「この世界で経験する"死"は、所詮しょせんは"やり直し"の契機けいきぎない」と。

 その証拠に、たったひとつだけ残された手掛かりがある。

 荒らすだけ荒らした部屋が片付いていようとも、った傷が跡形あとかたも無くえようとも、ボロ布も同然どうぜんの服がきちんと着せ直されていたとしても、記憶や感覚は雪のように蓄積ちくせきされている。

 しわひとつ無いシャツのえり手繰たぐり寄せ、むせかえるようなマリーゴールドの香りの中から、あたたかいだまりのような心地よさを探す。

 肩から背中にかけて広く残る香りを見つけ、ロゾールはゆるりと目尻を下げた。

 記憶に馴染なじんだ、世界でたった一つの思い出の香水だ。


 今度は落ち着き払った様子で硝子がらすの棺を抜け出したロゾールは、上着のポケットに見つけた手紙を手に取る。

 ふと目についたクローゼットを大きく開け放つと、仕立て糸がついたままの服と、靴や手袋などの装身具そうしんぐが仕舞い込まれていた。

 翼をデザインした、真紅の封蝋ふうろうが押された手紙の宛先あてさきを確認して、彼は一息に封を切る。

 きぬのように滑らかな肌触りの招待状を開いた彼は、何故なぜだかフッと口元をほころばせていた。

 

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