第3話  片翼の天使(前編)

 まな弟子でしとの再会で少なからず落ち着きを取り戻したロゾールは、思い出したかのようにほとばしる右肩の激痛に耐えかね、胎児たいじのように身体を丸めた。

 普通ならば、しばらく我慢していれば痛みにも慣れて、幾分いくぶんか苦痛がやわらぐはず。

 しかし気味の悪いことに、まるで傷が出来たその瞬間を繰り返しているかのような痛みが、延々と続いていた。

 終わりの見えない苦痛に苛まれながら、患部かんぶのぬめりを拭うロゾールの手を、カイムラルがそっとせいする。

 「いけません。酷い出血です」

 カイムラルは、老爺ろうやのような落ち着き払った声音で呟く。

 ふところからとりだした柔らかいハンカチを、痺れにも似た痛みに震え、熱を持つ患部にあてがった。

 しかし、しばらくもたたぬうちに吸いきれなくなった血液が、傷口を押さえるカイムラルの腕をつたそでを汚す。

 まるで、傷口から流れ出た血液がすぐさま蒸発して、あたりに充満しているかのようだ。

 まだ暖かくて喉の奥に絡みつくような臭いに、カイムラルは表情を歪めせこんでいる。

 それなのに、ロゾールはまるで自身の出血に気づいてすらいない様子で、不思議そうにカイムラルの言葉を反芻はんすうしているだけだ。


 そんなロゾールの反応に違和感を覚えながらも、カイムラルは止血を優先しようと重ねた手を離した時のこと。

 「カイムラルッ!!」

 突如、ロゾールが大声をあげてカイムラルを呼んだ。

 何事なにごとかと驚き、咄嗟とっさに強くロゾールの手を握り込んだカイムラルは、その異常な程のおびえ方に気がついた。

 苦痛か、はたまた恐怖からなのか、額にはあぶらあせの粒が浮かび、瞳孔どうこうは大きく開いている。小刻みに震える指先は、離すまいと言いたげにカイムラルの胸元を強く掴んでいた。

 「カイムラルッ!!君には、良く見えているんだろう?!早く……早く、部屋に火を灯してくれっ!!」

 生前のロゾールは、暗く閉鎖感のある場所を酷く嫌った。

 例えば……そう、棺の中などは特に。

 切羽詰まり叫ぶロゾールの声に、カイムラルはハッとして周囲を見回し、淡い星明りの下で冷たい輝きを放つ銀の燭台を手繰り寄せ、ポケットをまさぐる。

 (俺はなんて愚図ぐずな奴なんだ……!)

 カイムラルは自身の気のかさなに、舌打ちのひとつでも打ちたい気分だった。

 だが同時に、一枚の絵画のような無機質で音の無いこの世界が、不安や恐怖の感情をより深くさせているのではないかと、カイムラルは冷静に予想する。

 そうでなければ、ロゾールがこれほどまでに暗闇を恐れて取り乱すなど、飴が降っても、蜘蛛くもが降ってもあり得ないからだ。


 火薬の攻撃的な焦げ臭さが鼻を掠める。カイムラルは、ポケットから取り出したマッチを擦り、手慣れた仕草で燭台しょくだいに火を灯した。

 「……さぁ。もう、大丈夫です」

 語尾の処理に至るまでが丁寧な声音から、どんな些細ささいな物事でさえも決して粗末そまつにしない、カイムラルの性格がうかがい知れるだろう。

 いつの間にか、固く目をつむうずくまっていたロゾールは、まぶたの裏から感じた暖かいだいだい色の光に導かれ、優しく語りかけるカイムラルの姿を探した。

 顎を持ち上げた拍子に前髪の先からしずくが飛び散り、こめかみを滑り落ちる。

 視界に真っ先に飛び込んできたのは、豊穣の麦畑のような輝かしい金の髪。ロゾールが最も"美しい"と言って、こよなく愛した色だ。

 目をく太陽のようなそのきらめきが眩しくて、ロゾールは眼前に手をかざして目を細めた。

 前方に差し出したロゾールの手を取り、揺らめく炎の照り返しを閉じ込めた緑色の隻眼せきがんがゆるりと微笑みかける。

 右頬の上りが悪く、均等きんとうでどこかぎこちない笑顔の花は、無邪気で幼い子供のように愛らしい。

 穏やかで親しみやすい表情と眼差しに、ロゾールは幾度いくどとなく心を救われてきた。

 それはきっと、だって変わりはしないのだろう。

 "彼はきっと、人間の為に片翼かたよくを落とした天使だ"

 ロゾールはいつからか、心中しんちゅうでこっそりとカイムラルをそう呼んでいた。

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