第2話  エンドゲーム・スタディ

 ロゾールの渾身こんしんの平手打ちは、闇に溶けるようにひそんだ不届き者を、したたかに打ちえていた。

 バチンッ……と、乾いた音が静寂せいじゃくの中で弾け、の存在が一気に実態を帯びる。

 (相手は、人間だ)

 手のひらが触れた場所は柔らかく、ほんの一瞬でも分かるほどにあたたかい。

 は思わぬロゾールの一手に動揺したのだろう。ギリギリと締め上げるような腕のいましめがほどかれた刹那せつな______ロゾールは床を蹴り、無我夢中で暗澹あんたんの中へと身を投げた。

 「痛ッ……?!」

 だがしかし、一歩と進まぬうちに、等身大ほどの物体に右肩から激突する。

 咄嗟とっさに押さえた左手が肩を滑った。その手がひんやりとした空気に触れれば、手のひら全体から細かなしわにいたるまでに、引きったような違和感がある。

 ツンと鼻をつく痛みに表情を歪め、ロゾールはその場に崩れるように膝をついてしまう。

 (だめだ、立ち止まるな。逃げ、なければ……)

 噛み殺してもなお、喉の奥から引きしぼるような悲鳴が漏れ、ガンガンと頭の中で警鐘けいしょうを打ち鳴らす鼓動が、ロゾールをより深く混乱の海へと叩き落す。

 すでに大きく傾いていた謎の物体に、立ち上がろうとして掛けたロゾールの手が追い打ちをかけてしまったのだろう。

 まるで、すぐそばに雷が落ちたかのような。もしくは、幾重いくえにも重ねた薄いガラスが叩き割られるような音と、突き刺さるような衝撃波を肌に感じた。

 おぼつかない足取りで立ち上がったロゾールは、りずに退路を求めて暗闇を手探りに進む。

 床に散らばった破片を踏みつけると、ギャリッと、小石同士が擦れるような何とも嫌な音がする。


 トンッ……と、指先が壁に触れた。

 そのまま壁際をなぞり、扉を探して歩を進めれば、またもや何かにぶつかった。

 しかし、今度は慎重に進んでいた為、大した痛みはない…………?

 「____ぇ?」

 ロゾールよりもはるかに大きな影が、ぐらりとよろめいた。

 腰と頭の中心に、黒い毛虫がウゾウゾと這い動くような悪寒おかんがはしる。

 頭上に突き出された2本の柱の間から、十字の影がスルリと抜け落ちるようにしてひたいへと迫る。

 しかし、その様がどれだけはっきりと見えていようが、ロゾールがを避けるなど不可能だった。



 耳をつんざくけたたましい金属の叫びが、せいみゃくも感じられない静寂せいじゃくを切り裂いて響く。

 気がつけば、ロゾールは冷たい床に背中から仰向けに倒れ込み、あてを失った両腕を無造作に放り出しているだけだった。

 そしてその腹の上にはが馬乗りになり、おおいかぶさるようにしてロゾールを押さえつけていた。

 ____やめてくれ!!

 そう叫びたいはずなのに、薄く開いた唇は小さくわななくばかりで、吐き出せずに溜まっていくばかりの息が胸を圧迫して苦しい。

 今にも心臓が張り裂け、りになってしまいそうな程に、激しく鼓動が繰り返されている。

 薄いシャツ越しにでも分かるその胸の動きに、そっと寄り添うように重ねられたの鼓動。

 そこでロゾールは気がついた。

 自分は押さえつけられているのではなく、抱きしめられているのだと。

 熱いほどの柔らかい風が耳にかかり、ほんの少しくすぐったい。

 ロゾールの後頭部を守るように添えられているのは、骨ばって固い男の手だろうか?

 衣服からほんのりと香るのは、かつてロゾールが手ずからに調香ちょうこうした、世界でただひとつのものだ。

 サァァッ……と波が引くように、魂を支配していた恐怖が跡形もなく消え去ってゆく。

 落ち着きを取り戻したロゾールの様子に気がついたのか、は身体をよじらせそっと耳打ちをした。

 愛おしげで、心からの慈愛に満ちた優しい声だった。

 耳に馴染なじんだその声音に、ロゾールは口の中で綿雪が溶けるように、淡く微笑む。

 もう二度と、聞くことは叶わないと思っていたその言葉が、胸の奥の柔らかい場所に小さな棘を突き立てた。

 「ごきげんよう、ロゾール先生。またお会いできて、本当に嬉しいです」

 見えずとも、ロゾールには分かる。は今、まるで天使のように美しく儚い笑顔で、自分を見下ろしているのだと。

 「あぁ、カイムラル。私の______」

 

 2番目の招待客、カイムラル・メイト。

 ロゾールが生涯で"弟子でし"と呼んだ、ただひとりの人物。

 同時に、彼が生涯をして求めた"問い"に、"たった一つの答え"を示した存在である。




>>【招待者名簿 2/12】

カイムラル・メイト(1883~1911年)

享年:27歳

職業:医師

身長:177㎝

駒名:ビショップ(白)

役割:医師

魔法:「トリスティティアの鏡」


 ロゾールが生涯の中で"弟子"と呼んだ唯一の人物であり、現在で言う"義眼ぎがん"を用いた治療の初の成功患者。

 ロゾールの死後、グラウ・エレット教会による異端いたん審問しんもんで、有罪判決を受け刑死けいしした。

 世界各地で行われていた「魔女裁判」の歴史の中でもるいを見ない、男性の"魔女"だったと伝わる。

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