第65話 井伊直虎
遠江と三河の国境では今川氏真と徳川家康が領地を巡って戦っていました。徳川は三河全体を手に入れ、そのままの勢いで遠江まで進出しようとしていたのです。武田との約定もあり、モタモタしていられないという事情もありました。ところが、今川氏真が自ら遠江に出陣してきました。
「氏真め、どういう風の吹きまわしだ。今までのんびりしておったのに」
家康は納得がいきません。家康は今の氏真は遠江の反乱を抑えるのに精一杯という感覚でした。三河まで出てこようとは全くの想定外です。今川軍には、由比、岡部、一色ら駿河勢に加え、遠江の井伊、小笠原を加えた総勢一万もの軍勢です。家康は遠江へ出るどころか防戦一方でした。
「武田は何をしているのだ。まさか、裏切ったのではあるまいな?」
今川氏真は上機嫌です。裏切り者の徳川家康、今まで放っておきましたが自ら成敗できる日がやってきました。井伊からは家督を継いだばかりの次郎法師改め、井伊直虎が参戦しています。井伊の家はゴタゴタしておりましたがやっと直虎が重い腰を上げました。この戦で成果を出せば井伊谷だけでなく領地を増やしてもらう事になっています。その裏で勝頼は直虎に接触していました。氏真と次郎法師の確執を知っていたのと、三雄から井伊を味方にするように言われていたのです。井伊の隊には勝頼配下の伊那忍びが連絡役を兼ねて紛れ込んでいます。
「井伊様、寿桂尼が亡くなりました。すぐに氏真にも伝わる事でしょう。それがしは岡部様、由比様に知らせて参ります」
「わかった。氏真様はどうされるであろうか?」
「殿は駿河へ戻ると予想しているそうです。井伊様はここに残されるのではないかと」
それに対し直虎は女性らしくはっきり物を言います。
「遠江勢が残されるのは道理。だがここまできて引き上げるのは愚策」
「氏真ですので。実際どうなるかはわかりません。それではそれがしは行きますので」
直虎は伊那忍びを見送りながら、面白い伝達役だ、こいつが殿と呼ぶ勝頼とはどんな男なのだろうとあらためて興味を持ちました。
その頃、徳川家康の元にも伊那勝頼からの使者が現れました。
「武田は今川を攻める為、富士川を下り始めました。数日中には東海道へ出る見込みです。徳川様におかれましても兼ねてのお約束通り動かれますようお願い申し上げます」
「何をふざけた事を。この様子が見えんのか!今川氏真はこの近くに来ているのだ。その隙を突こうとは信玄め、諮ったか!」
「偶然にござりまする。今川氏真が出馬するとは思いもよらぬ事にございます。まさか氏真が、と皆が申しております。ですがここで武田が東海道へ出れば今川にも動きがあるでしょう。ご武運をお祈りいたします」
使者は言いたい事を言って帰っていきました。家康は頭に血が上ってかっかしていましたが、時間が経って冷静になるにつれ、
「使者の言う通りだな。こうなっては武田が活路を見出してくれるやも知れんな」
家康は攻戦に出るタイミングを計り始めました。
氏真のところに寿桂尼が亡くなったとの連絡が入りました。岡部、由比はすでに知っている情報でしたが驚いたふりをしています。当の氏真はわんわん泣きだします。今川軍はその日は攻撃を行わず、何もせずに1日が過ぎました。
翌日、岡部が氏真に詰め寄ります。
「お屋形様。徳川は防戦一方でございます。攻めるのなら今が好機」
「岡部、おばば様が死んだのだぞ。戦どころではあるまい」
「なんと仰せられる。裏切り者の徳川家康を討ち取る為の戦ではありませぬか?ここまで追い詰めて引いては寿桂尼様に笑われますぞ」
「ここに余がいなくても勝てるであろう。余は駿河へ戻る。皆は残って戦果を上げてくれ」
勝頼殿の予想が当たったか。ここで引くような男についていく価値はない。これで迷いは吹っ切れた。岡部は長年仕えてきた今川家から武田家に乗り換えると決めた後も少し迷いがありました。簡単には割り切れないものです。寿桂尼が死に義理が無くなった事も決定打になりました。
氏真が駿河へ戻ろうと思ったのには他にも理由がありました。遠州錯乱と呼ばれた家臣の離脱が駿河でも起きる事を恐れたのです。決して寿桂尼が死んで哀しんだだけではなかったのですが、悪い歯車の回転が止まらず事態はどんどん悪化していきます。
岡部はさてどうするか?と考えます。勝頼が東海道に出てきているはずです。このまま徳川を抑えれば遠江は丸々武田の物になります。ただ、武田が攻めて来たとわかった時、氏真はどうするのでしょう?この勢力をここに残してはもらえないはずです。
岡部正綱は井伊直虎を呼び出しました。
「岡部殿、いかがなされた?」
「勝利の道は」
これは合言葉でした。武田に通じている者同士がお互いを確認する為のものです。直虎は聞いた通りだと思いつつ答えます。
「海が好き」
岡部はニヤッと笑ってから真面目な顔に戻り、
「井伊殿、本題に入る。すぐに武田の情報が入ってくる。そうなれば徳川も我らが下がると思い攻めかけてくるだろう。だがそのまま逃げ帰っては勝頼殿に顔向けができん。せめて井伊谷で堪えたい」
「これだけの兵がいればここで持ち堪えられよう。三河に攻め入る事さえ出来そうですが」
「氏真は武田が攻めて来たとわかれば全軍を引いて駿河へ戻るに違いない。だが戻る前に駿府は落ちるであろう。他にも武田の息がかかっている国衆は多い。そうなると我らは武田と徳川に挟まれることになる。この遠江でな」
「なれば、私がここで氏真を討ちましょう。今川には思うところがあるのですよ」
直虎は氏真に許嫁を殺されています。手を下したのは氏真の命令を受けた朝比奈泰朝ですが、この時直虎はまだ、朝比奈が仲間になるとは知りません。
「由比殿はこちら側だが一色は今川方だ。氏真を討った後に一色を抑えねばならないが、ここで内乱が起きればそれを家康は見逃すまい。上手くやらねば遠江は家康に取られてしまう」
「ならば由比殿と岡部殿でなんとかしていただきたい。私は氏真を」
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