第2P パンデミック(Pandemic)パラダイム・シフト(Paradigm shift)

 令和二年四月七日火曜日の緊急事態宣言の発令から、瞬く間に時は過ぎ去り、四月下旬になっていた。


 黄金週間の連休に入る直前ついに、隠井が勤務している全ての大学から、新学期の開始は休み明けからで、事態が落ち着くまではオンラインにおいて講義をするべく準備をするように、といった通達メールが届いた。

 連休明けからの〈対面講義〉の開始という楽観的な希望を抱いていた幾つかの大学も、一向に減らない感染者数に業を煮やして、ようやく、オンライン講義実施の要請をしてきたのである。

 ある意味、これは隠井の予想通りではあったのだが、このような、連休直前の一方的な指示は、準備のために連休を潰せ、という半強制のようなものである。


 とまれ、かくの如き理由から、〈連休〉とは、単なる字面だけの話となり、四月末から五月の初めは、オンライン講義の準備、即ち、自宅から配信をするための機器の手配や設置、講義で扱うための資料の作成、リアルタイム配信講義のリハーサルなどで忙殺され、昼夜逆転どころか、準備が一段落したら眠るといった、〈廃ゲーマー〉のような生活リズムになってしまっていた。


 さらに、オンライン講義の準備以外にもやるべきことがあった。


 例年ならば、春学期の開始は四月の初旬、ないしは中旬なのだが、しかし、令和二年度に関しては、開始は五月の連休明けに設定された。とはいえども、だからといって、春学期の終了が、数週間分うしろ倒しになって、八月半ばになるわけではない。つまり、何らかの形で、四月の休講分の不足を補完しなければならないのである。

 そこで、隠井は、自分が担当している『比較文化論』のゼミに関しては、「課題講義」としてレポートを課すことにしたのである。


 考え抜いた末に、隠井が選んだテーマは以下のようなものであった。


「〈COVID-19〉というパンデミック状況下において、今現在、リアルタイムで確認できる〈パラダイム・シフト〉について具体例を挙げ、この感染症の前後に確認できる変化について言及しなさい」


 このようなテーマを設定した所で、ふと思った。

 大学三年生くらいだと、受講生の中には、「パラダイム」という用語について無知なゼミ生も中にはいそうだ。そこで、「パラダイム」について簡潔に説明し、具体例を記載したファイルを添付しておくことにした。この程度は自分で調べて欲しい、とも思うのだが、現在、図書館も入館禁止という状況にあるので、多少のサービスをしておくことにした次第なのである。






「〈パラダイム(paradigm)〉とは、一般的な意味では〈範〉や〈模範〉を意味する言葉である。


 しかし、一九六二年刊行の『科学革命の構造』の中で、著者である科学史家・科学哲学者トーマス・クーンが、科学史あるいは科学哲学における特別な用語として〈パラダイム〉という概念を提唱した。

 クーンは科学史家であるため、この〈パラダイム〉という概念を、その専門である自然科学という限定された分野のために考えたのだが、この用語は、提唱者の意図を越えて、本来は適応できないような広い領域にさえ使われるようになり、その結果、数多くの誤った解釈が為されてしまった。そのため、クーン自身が、一九七〇年上梓の『科学革命の構造』の改訂版の中で、〈パラダイム〉という用語の撤回を宣言したのだが、それから半世紀を経た二〇二〇年現在、最初の提唱者であるクーンの意図はどうであれ、〈パラダイム〉は今なお広い領域で使われ続けている。


 そうして一般的な意味を獲得した〈パラダイム〉とは、簡単に言うと、とある時代の、とある集団が共通して抱いている物の見方・考え方のことである。


 例えば、十九世紀的な文学研究のパラダイムは〈作者研究〉であった。

 つまり、作品を分析することも、それを書いた〈作者〉について知るためのものであった。別の言い方をすると、作品の外側にいる作者と、作者にまつわる事象について研究する、いわば、作品の外部、〈外在研究〉であったのだ。


 これに対して、二十世紀的な文学研究のパラダイムとは〈テクスト研究〉である。

 つまり、作品を創作した作者という存在をいったん括弧に入れて、こう言ってよければ、分析から、作者という作品の外側を徹底的に排除する。そして、作品には、どうしても作者の存在が付着しているため、書かれたものを、作品ではなく、テクストと称し、その〈テクスト〉それ自体の内部を研究対象とした、いわば〈内在研究〉だったのだ。


 そして二十一世紀的な文学研究のパラダイムは、作者よりも作品寄りの〈内在研究〉に比重があるという点では、二十世紀のパラダイムである〈テクスト研究〉の延長線上にあるのだが、テクストを、より〈面白く読む〉ためには、二十世紀的なパラダイムが排除してきた作品の外側の利用も厭わないという研究方法である。


 簡単にまとめると、文学研究の〈パラダイム〉は、十九世紀は〈作者〉に関する外在研究、二十世紀は〈テクスト〉に関する内在研究、二十一世紀は、外在と内在が混交した〈作品分析〉に移り変わっていったことが指摘できよう。


 このような、とある時代における、とある集団の物の見方・考え方の移り変わりこそが〈パラダイム・シフト〉なのである」






 音読しながら、二度ほど見直した後で、このワードファイルをPDF化して、資料として大学のオンライン講義システムの「掲示板」にアップした。


 昨年までならば、様々な古今東西の歴史の中から具体例を見付けてくる、という形式にしたはずなのだが、今、まさに、世界規模に拡大している感染症のせいで、社会の色々な局面において、リアルタイムで〈パラダイム・シフト〉が発生しているのだから、これは、非常に同時代的なテーマだと言えよう。


 さらに、このレポートには、もう一つ別の目的があった。


 現状、未だ今年のゼミ生には一度も会えていない。

 四年生の中には何人か面識のある者もいるのだが、三年生に関しては、どういった受講生が自分のゼミにいるのか、まるで分からないのだ。

 自分が、今回提示したレポートテーマは、ゼミ生全員に共通のものなのだが、どのような具体例を選んでくるかによって、受講生の趣味・趣向が窺い知れるというものであろう。


 講義のシラバスには、「社会における様々な文化的事象が比較研究の対象、ハイカルチャーからサブカルチャーまで」と書いておいたし、学生サークルが作成し、三月に発売された講義選択のためのガイドブックでは、「ヲタク講師」って書かれていたので、受講生も、あまり固く考え過ぎずに、自由に思考してくれるに違いない。


 どんなレポートがあがってくるのか、心待ちにしている隠井であった。

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