第1P パーン(Pan)パニック(Panic)パンデミック(Pandemic)

「はい、皆さん、僕の声が聞こえているでしょうか?

 初めまして、隠井迅と申します。オンラインになりますが、よろしくお願いします。

 

 日本どころか、世界中に拡がった感染症のせいで、大学の構内に入ることすら禁じられているので、当面の間、このミーティング・アプリを使って、講義はリアルタイムで生配信してゆくことになります。


 ニュースなどで、〈パンデミック〉って言葉を耳にしたことがある受講生もこの中にはいるかと思います。

 このパンデミックは〈感染爆発〉と訳されているようです。

 それでは、いったいどのような感染がパンデミックなのでしょうか?


 世界保健機構(WHO)は、感染症流行の規模に応じて、レヴェル分けをしているようで、地域的な流行を〈エンデミック〉、国内ないし数ヶ国の流行を〈エピデミック〉、そして、世界的で最大規模の流行を《パンデミック》と区別しているようです。


 これまでの歴史の中で、人類は何度かパンデミックを経験してきました。

 例えば、中世ヨーロッパにおける〈黒死病〉、十九世紀から二十世紀にかけて大流行した〈コレラ〉、第一次世界大戦の頃の〈スペインかぜ(インフルエンザ)〉、一九六八年の〈香港かぜ〉などがパンデミックに該当します。


 パンデミックの詳細に関しては、医学専門の方に任せることにして、僕も受講生の君たちも〈ど文系〉なわけですから、この講義では、パンデミックの語源について考えを巡らせてみることにします。


 一般的な辞書を参照してみると、パンデミックの語源は、ギリシャ語の〈パン(全て)〉と〈デミア(人々)〉に由来している、と書かれていて、この語源は、〈全ての人々〉への感染を適切に表しているようにも思われます。


 しかし、パンデミックというのは、ギリシア神話に出てくる〈パーン〉という名の神に由来している、という説もあるのです。


 パーンとは、羊飼いや山羊飼いの神で、上半身が人間、下半身が山羊、とがったあご髭に、二本の角に、毛むくじゃらの足、割れた足先という姿形をした半獣半神でした。


 この山羊の神パーンには幾つもの逸話があります。


 例えば、クロノスとゼウスの戦いの際に、ゼウスに味方したパーンは、戦闘において大声で鬨の声をあげました。パーンの声を聞いた者は、心が凍って、誰もがその場で棒立ちになってしまいました。このようにパーンの声には、耳にした者を〈恐怖〉させる力が備わっていたのです。


 また、ゼウス率いるオリュンポスの神々が、テュポンという巨人と戦った時のことでした。テュポンと対峙したパーンは、恐怖のあまり、本来の上半身が人間、下半身が山羊という姿ではなく、上半身が〈山羊〉、下半身が〈魚〉という姿に変化してしまったのです。それほどまでに、パーンは、驚き慌ててしまったのでした。


 この二つのエピソードは、パーンが驚かす、パーンが驚かされるという逆の状況の逸話なのですが、いずれの場合にせよ、パーンの〈恐慌〉は甚だしいものだったのでしょう。そして、こうしたパーンの恐慌状態こそが、突発的な不安や恐怖という混乱した心理状態を意味する〈パニック〉の神話的由来になっているのです。


 さてさて、私が参照した幾つかの神話関連の文献には、『パーン』の項目に、パーンが〈パニック〉、ないしは〈パンデミック〉の語源だという記述があって、パニックに関しては、先ほど話した逸話から神話的な由来は明らかなのですが、パンデミックに関しては、単に語源だと書かれているだけで、詳しい説明がないのです。


 なので、ここからは、神話的な知識に基づいた私の推測という、知的な遊びの話になります。


 先ほど話した、テュポンとの戦いの時に、パーンはパニックに陥って、上半身が山羊で、下半身が魚という姿に変化してしまったのですが、この時、あたかもパーンの恐怖が伝染したかにように、他のオリュンポスの神々も、恐怖のあまり、動物に姿を変えて、エジプトに逃げて行ったそうなのです。


 神話には詳しいところまでは書かれていないので、だからこそ、ここに想像力を働かせる余地があるのですが、もしかしたら、パーンの恐怖、すなわち、パニックが他の神々に伝染した状況、これこそがパンデミックの神話的由来になっているのかもしれません。


 最近耳にするようになった言葉一つからでも、こんな風にしてギリシア神話にまでたどり着き、さらにそこから、知的に遊ぶこともできるのです。こういった事例って他にも結構あるのですよ。


 僕の講義の中では、こんな風にして、文化を楽しんでゆこうと考えています。


『ふ、ふっ、ふうううぅぅぅ〜〜~』」


 隠井は一息ついて、ミーティング・アプリを使ってのライヴ生講義の〈練習〉を終えた。


 実はこれは、講義本番ではなく、PCをホストにし、スマホをゲストにした練習だったのだ。


 生まれて初めての生配信講義を、いきなりぶっつけ本番でやるのは怖い。

 最初は、同僚の誰かに受講生役になってもらおうか、とも考えていたのだが、ほとんど全ての教師は、今、オンラインの準備で〈パニック〉状態になっているのは明らかだ。

 そこで、自作自演で、ホストとゲストの一人二役をやってみた次第なのである。


 しかし、だ。

 それにしても、相手が見えず、画面に向かって独りで話しているのって、やっぱり、かなりの違和感があるな、と思う隠井であった。


〈参考資料〉

〈WEB〉

「パンデミック感染症」,『日本薬学会』,二〇二一年十二月十一日閲覧.

「パンデミック」,『看護roo用語辞典!』,二〇二一年十二月十一日閲覧.

〈書籍〉

「パン」,エヴスリン(バーナード)著,小林稔訳『ギリシア神話物語事典』,東京:原書房,二〇〇五年,一八六~一八七頁.

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