15−9

「はい! そしたらいよいよお肉を焼いていきます! フライパンの半分くらいまで油を入れて、170℃まで温めていきます! この温度は大事なので、上がるまで焦らずに待ってくださいね! 火加減は中火で! 温度を見る時はパン粉を入れたり、お箸の先付けたりするんですけど、難しい場合は温度計を使ったらいいと思います!」


 ガスコンロの火を付け、油をたっぷり入れたフライパンを火にかける。沸々と音を立てるフライパンを見守る喜美はプロの顔をしていた。


「はい! そしたら温度が上がったところでお肉を投入します! この時油跳ねに注意! だいたい2分くらい揚げていきます! 2分くらい経ったら衣が固まって色が変わってくるので、そしたら火加減を強くして温度を上げます! 温度は175℃くらいで! 最後に強火にすることでサクサク加減がアップするんで!」


 肉を投入すると泡がじゅわっと広がって一気にぱちぱちと弾け出す。最初は気泡しか見えなかったが、気泡が薄まるにつれてきつね色に染まった肉が浮かび上がってくる。


「お肉が揚がったら油を切って、食べやすい大きさに切っていきます! 一部赤身が残ってるかもしれないですけど、後からタレと一緒に煮るので大丈夫です!」


 肉をフライパンから取り出してパッドに上げ、それからまな板に移して縦向きに切っていく。衣を切るさく、さくという音が何とも心地よくこれだけで飯が食えそうだ。


「はい! そしたらいよいよお肉とタレを合わせていきます! さっき作った玉ねぎ入りのタレをフライパンに移して、玉ねぎが柔らかくなるまで煮ます! 火加減は中火で! その間に残りの卵2個を割って溶いておきます! 卵は軽く溶くくらいで大丈夫です!」


 タレ入りのフライパンをコンロにかけ、その間に手際よく卵を割って混ぜる。タレに火が通ると案の定香ばしい匂いが漂ってきて、飯を済ませたはずなのに俺の腹の虫が動き出した。


「玉ねぎに火が通ったら、タレの上に切ったお肉を乗せていきます! 特に沈めたり混ぜたりしないで上に乗せるだけ大丈夫です!

 で、その次に卵を入れていきます! ここで大事なのが……涼ちゃん何かわかる?」


「え、俺?」いきなり名指しされて面食らう。「知らねぇよ。俺カツ丼なんて作ったことないし」


「カツ丼はなくても他の料理いっぱい見てきたでしょ! 卵入れる時に気をつけるポイントはなーに?」


「ポイント……? あぁ、あれか? 2回に分けていれるってやつ」


「せいかーい! 親子丼とかでもそうだけど、卵分ける時は基本的に2回に分けるのがコツ! ちなみに涼ちゃん、その理由は?」


「確か……半熟に仕上げるためじゃなかったけ。最初から全部入れると硬くなりすぎるから」


「そのとーり! 涼ちゃんってばよく勉強してるね! 後でよしよししてあげる!」


「いらねぇよそんなもん」


 つーか客の前でいちゃつくなって言ってんだろ。幸実さんが気にするだろ。俺は心配になって客席を見たが、幸実さんは意外にも口に手を当てて笑っていた。


「ふふっ……本当に仲がいいんですね。さっきから見てたら息ぴったり」


「あ、やっぱりわかりますか!?」喜美がいかにも嬉しそうに尋ねる。


「はい。あなたが明るいのは元からの性格なのかと思ってましたけど、もしかしてこちらの方のおかげなんでしょうか?」


「そうですね! 涼ちゃんが隣にいてくれたらあたしは元気100倍です!」


「そうですか……。何だかいいですね、素敵な方が近くにいて」


「おねーさんだってこれからですよ! 今はまだ出会ってないだけです!」


「そうでしょうか……。私の体質からして、そんな人に出会えるとは思いませんけど……」


「そんなのわかんないですよ! 殻の外には世界が広がってるんですから!」


「殻?」


「そうです! 殻です! 大事なのは勇気を持って殻を割ること! というわけでおねーさんもかつ丼で不幸の殻を破っちゃいましょう!」


 喜美が謎の気合いを入れてフライパンに肉を投入する。次いで溶いた卵を2回に分けて入れ、そのまま蓋をして1分ほど蒸す。やがて蓋を開けると、そこには半熟卵に包まれたとんかつが出現していた。


「はい! 火が通りました! このままご飯に乗せて、後は三つ葉を飾ればできあがり!

 ……というわけで、『不幸に打ち勝て! カツ丼』の完成でーす!」


 どんぶり茶碗に盛ったカツ丼を見せびらかしながら喜美が宣言する。厚切りの肉に半熟状の卵が絡み合った見た目は見るからに食欲をそそり、さらに一口大に切った三つ葉がいい感じにアクセントを添えている。俺の腹の虫がそいつを食わせろと抗議の声を上げるのがわかったが、これは俺のじゃないからと必死に宥めた。


「わぁ……すごく美味しそう」幸実さんがうっとりとカツ丼を見つめる。

「でも……本当にいただいてしまっていいんでしょうか……?」


「もちろんですよ! これはおねーさんのために作ったかつ丼ですから!」


「でもやっぱり申し訳ないです……。お代だって払えませんのに……」


「いいんですよ! あたしの気持ちですから! ねっ、涼ちゃん!」


「あ、あぁ……そうだな」


 一応肯定の返事はしたものの、俺は手放しで歓迎したわけではなかった。ただでさえも立場が弱い個人経営の店で、こんな慈善事業みたいなことをしてたらいつまた閉店の危機に見舞われるかわからない。

 とはいえ、ここは喜美の店だ。喜美がただでも飯を食わせたいと言うのなら、俺としてはそれを尊重するしかない。


「じゃっ! すぐ用意して持っていきますね! あ、お味噌汁と漬物はいりますか?」


「いえ、そんな……これ以上申し訳ないです」


「遠慮しないでいいですよ! サービスですから!」


「そうですか……? じゃあ、お味噌汁だけ……」


「わかりました! じゃ、用意できたら持っていきますね!」


 喜美が厨房と客席を仕切っているカーテンを閉じる。実演調理が終わった合図だ。実演調理の間、俺はつい仕事を忘れて喜美の調理に見入っていたのだが、そこでようやく今がバイト中であることを思い出した。


「あ……えっと、お冷のお代わりいりますか?」


 ほとんど減っていないグラスを見ながらも一応尋ねる。幸実さんは少し迷った後で頷いた。


「はい、お願いします。私実は喉カラカラで」


「あれ、そうなんですか? その割に全然減ってませんけど」


「あのお嬢さんの調理がすごく鮮やかだったから、見入って水飲むの忘れちゃったんです。それにお話も楽しくて……。本当、太陽みたいな人ですね」


「まぁそうですね。もうちょっと落ち着けよって思う時もあるんですけど」


「あのお嬢さんはあのままでいいと思います。あぁいう性格だからこそ、自然と幸せが寄ってくるんだと思いますから。……私と違って」


 幸実さんが寂しげに笑って水を飲む。それを見て俺は心配になった。喜美はカツ丼で幸実さんを幸せにするようなことを言っていたが、そんなことが本当にできるのだろうか。カツ丼を食べたところで幸実さんに喜美の幸せが移るとは思えず、かえって自分との違いが浮き彫りになって、幸実さんをますます落ち込ませるだけじゃないんだろうか。

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