15−4

 俺が怪訝に思いながら見ていると、貞子が急にはっとした様子で顔を上げた。


「あ、す、すみません……。なんか私、取り乱してしまったみたいで……」


 いきなり普通の声になって貞子が顔に張りついた髪を掻きわける。現れたのは三十代くらいの女性だった。顔は青白いものの目は血走っておらず、どこにでもいる平凡な女性に見えた。


「私、興奮すると気持ちを抑えられなくなってしまうんです。だから周りに人がいることも忘れてしまって……。いきなり叫んだりしてびっくりさせてしまいましたよね、すみません……」


 貞子、もとい女性が心底申し訳なさそうに言う。俺はお玉を下ろして「はぁ」と気の抜けた返事をした。事情は謎だが、とりあえずこの人は貞子ではなさそうだ。


「えっと、とりあえず何があったんですか?」俺は尋ねた。


「実は私……財布を落としてしまって」


「財布を?」


「そうなんです。私の全財産……といっても大した金額ではないんですけど、それでも全財産がそこに入っていて。それがないと帰りの電車にも乗れないので一生懸命探していたんです。そしたら途中で雨が降ってきて、あっという間にどしゃ降りになって……」


「はぁ、傘は持ってなかったんですか?」


「持っていたんですけど、強風が吹いて折れてしまって……。やっぱり安物のビニール傘なんて使っちゃいけませんねぇ」


「はぁ……つまり傘も差さずに大雨の中を歩いたんでずぶ濡れになったってわけですか」


「そうなんです。ホントについてないですよね……。一日に悪いことが三つも起きるなんて」


 女性が自嘲気味に笑みを漏らす。財布を失くして雨に降られて傘が折れる。確かになかなかない不幸の盛り合わせだ。


「で、なんでまたうちの食堂に? 雨宿りですか?」


「いえ、そうじゃないんです。どこを探しても財布が見つからないので私、交番に行こうと思ってんです。このままだと電車もなくなってしまいますし、それ以前に風邪をひいてしまいそうで……」


「まぁそりゃそうですね。でも見ての通り、うちは交番じゃありませんけど……」


「それが私……雨に打たれ続けたせいか意識が朦朧として、途中から自分がどこに向かってるかがわからなくなってしまったんです。見えるのはシャッターの閉まったお店ばかりでどこにも交番らしき場所はない。その間にも雨は強くなって体温は下がる一方。あぁ、私はこのまま雨にそぼ濡れて死ぬんだ……。そう思った矢先にこのお店の看板が目に飛び込んできたんです。これぞ天の助けだと思いました」


「……つまり、交番と間違えたってことですか?」


「そうなんです。その時の私には、灯りがついているというだけで交番のように見えたんです。でも中に入ったらあるのは食堂で、もちろんお巡りさんもいなくて、それで私、自分がとうとう天に見放されたんだと思って……」


 それで堪りかねて絶叫したということらしい。一応事情はわかったが、こっちからしたら人騒がせな話だ。

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