15−3

 そこで急に入り口の引き戸が勢いよく開かれて、俺は弾かれたように喜美から手と身体を離した。後三秒遅かったらばっちり目撃されていたところだった。


「いいいいらっしゃいませー! ななな何名様ですかー! おおおお煙草とテーブルはお冷がいいですか!?」


 同じようにパニックに陥った喜美が慌てふためきながら客に声をかける。何かいろいろ混ざってるぞと思いながらも俺は自分もパニくっていて突っ込む余裕がなかった。


「う、うう……」


 入口から聞こえる謎の呻き声。見ると女性が一人で立っていた。真っ黒なパンツスーツ姿で、髪もこれまた黒くて長い。だが雨に打たれたのかスーツはずぶ濡れで、長い髪もぺったりと張りついて顔を隠してしまっていた。


「だ、大丈夫ですか!? びしょ濡れじゃないですか!」喜美が慌てて言った。

「ちょっと待ってください! 今タオル持ってきますから……」


「う、うう……」


 女性がまたしても低い呻き声を上げる。顔が見えない状態でそんな声を上げられるとものすごく不気味で、喜美も異様な気配を察知したのか、タオルを取りに行くのを止めてしまった。


「あ、あの、お客さん……?」


 喜美がおずおずと声をかけようとしたその時だった。それまで猫背気味だった女性がゆっくりと身体を起こしたかと思うと、動きを止めてこっちを凝視してきたのだ。前髪に覆われて顔は見えないのに、血走った目で睨みつけられているように感じられる。


「う、うう、うう……、う……」


「お、お客さん……?」


「うわあああああああああああああっ!」


「うひゃあっ!」


 女性が両手で顔を覆って絶叫し、喜美も裏返った声を上げて飛び退く。そのまま俺の後ろに隠れてエプロンをぎゅっと握りしめてきた。そりゃそうだろう。いきなりずぶ濡れで店に入ってきて、恨めしげな声を聞かされ、その上叫ばれたりしたら誰だってビビる。現に俺だって相当ビビっていた。


「りょ、涼ちゃん……。これってもしかしてアレ……? あのテレビから出てくるやつ……?」喜美が手と声を震わせながら尋ねてきた。


「テレビから出てくる? 何のことだ?」


「ほら……いるじゃん……。白い着物着た女の人で……髪が長くて顔隠れてて……」


「……もしかして貞子のことか?」


「そう、それ……。やだなあたし、幽霊とかすごい苦手なんだけど……」


「……幽霊なんかいねぇよ。貞子だってフィクションだっての」


「でもこれ、そっくりじゃん……。きっとあたしに取り憑こうとしてテレビから出てきたんだよ……」


「いや、違うと思うけど……」


「でも実際怖いもん……。ねぇ涼ちゃん、何とかしてよ……」


「んなこと言われても……」


「お願い……。あたし、こういうのホント苦手で……」


 喜美が涙目になりながら身体を寄せてくる。どうやら本当に怖がっているらしい。震えと一緒に体温が伝わってきてこんな時だってのに身体が熱くなる。俺だってホラーが得意なわけじゃないが、こんな風に頼られたら男を見せるしかないじゃないか。


 俺は自分のビビる気持ちを押しやると、意を決して貞子に向き直った。こういう時映画ではどうしてたっけ? 逃げる? 戦う? 出口の前には貞子が立ちはだかっているので戦う他に選択肢はない。武器になりそうなものはないかと見回し、厨房にあったお玉を手に取った。本当は包丁がよかったが、そんなもの振り回したら今度はスプラッタ映画になってしまう。


 生唾と一緒に恐怖を飲み込み、お玉を片手に貞子と対峙する。貞子が呻き声のようなものを上げ続けているものの襲ってくる気配はない。ここはこっちから先に仕掛けるべきなんだろうか。でもどうやって? ゴルフクラブみたいに殴る? それとも柄の部分で突く? 幽霊と戦った経験なんてないからわかるはずがない。


「よ、よーし……どっからでも来い!」


 お玉を剣のように構え、精一杯虚勢を張って叫んだもののやはり貞子が襲ってくる気配はない。両手に顔を埋めて何やらぶつぶつ呟いているだけだ。

 それを見て俺は違和感を覚えた。この貞子、なんでさっきから襲ってこないんだ? 映画ならとっくに摑みかかられていてもおかしくないのに。そもそもこいつ、本当に幽霊なのか?

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