0−1

 1人になった道を俺は歩いて行った。道の両脇には桜並木が広がり、時々風が吹いて桜の花びらを散らしている。そんな景色を見ても1年前の俺なら何とも思わなかっただろうが、今の俺は感慨深い気持ちでいた。


 俺自身、この1年で随分変わった気がする。1年前の俺はとにかく惰性で、人と関わるのも面倒くさくて、楽をすることだけを考えて毎日を過ごしていた。

 それがいつの間にか人との関わりを楽しめるようになり、お節介を焼くようになった。本音で話すのはまだ少し恥ずかしいけど、それでも少しだけ、自分の気持ちに素直になっていいと思えるようになった。


 そんな自分がいることが最初は信じられなかった。でもそれも、実は殻の中に眠っていただけで、元からあった俺の一部だったのかもしれない。それに気づかせてくれたのは、1年前の出会いがきっかけだった。俺にとって大事な意味を持つあの食堂と、1人の女。


 これから俺はどうなっていくのだろう。未来がどうなるかなんてわからないけど、来年の春を迎える頃には、俺はまた少し変わっているような気がする。殻を割って、新しい自分に会って、そこからさらに新しい出会いが広がって、前は不安にしか思えなかったその経験が、今は少し楽しみでもある。


 物思いに耽りながら歩いているうちに桜並木が終わり、代わりに見慣れた光景が見えてきた。こじんまりとした質素な食堂。メニューも食品サンプルもない外観の中で目立つ、オレンジに色に光る「たまご食堂」の看板。


 その看板の下で、1人の女が掃き掃除をしているのが見えた。片手に箒、片手にちりとりを持って葉っぱや桜の花びらを集めている。丸まった小さな身体はそのまま前にひっくり返ってしまいそうで心配になったが、無事に掃除を終えたその女はふうっと息を吐いて身体を起こした。片手で額の汗を拭い、満足そうに辺りを見回したところで俺が見ているのに気づいたらしい。急に満面の笑みになって大きく手を振ってきた。


「りょおちゃーん! おはよー!」


 俺は思わず苦笑した。もう夕方なんだからおはようじゃないだろ、まぁでも、こんばんはとか言うのも他人行儀だしこのままでいいか。大事なのはこうして今日も会えたこと。挨拶の言葉なんてどうだっていい。


「よう、喜美」


 俺は自分も表情を緩めると、片手を挙げて喜美の方に歩いて行った。

 3月末。1年の終わり。だけどこの俺達の生活はこれからも続く。たまご食堂の春は、まだ始まったばかりだった。




[ようこそたまご食堂へ 了]

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