12−17

 厨房では喜美が大量の洗い物と格闘していた。水を流していたせいで最初は俺が入ってきたことにも気づかなかったが、俺が横に立つとようやく気づいて蛇口を止めた。


「あ、涼ちゃん。いやー今日は疲れたね! フライパン振りすぎたせいで腕痛いよ」


 喜美が笑って片手で反対側の二の腕を揉む。実際その顔には疲れが滲んでいたが、それ以上に充実感を覚えているのがわかった。


「こんな忙しかったの何年ぶりだろ? 開店以来かなぁ……。あれからお客さんどんどん減っちゃったし、よく5年も続けてこられたなって思うよ」


 タオルで手を拭きながら喜美は天井を見つめる。天井に付いた換気扇からわずかに風が吹き出し、2つ結びにしたソバージュの髪を揺らしている。


「でも、今日いっぱいお客さん来てくれたおかげでもう1回頑張ってみようって気になれたよ。これもみんな涼ちゃんのおかげだね! ありがとね、涼ちゃん!」


 喜美が俺に満面の笑みを向けてくる。そのまま流し台の方に向き直って洗い物を再開しようとした。


「……喜美」


 その一言を捻り出すのがやっとだった。喜美が驚いた顔で俺を見上げてくる。俺はどう続けようか迷ったが、口じゃ上手く伝わらない気がしたので先に行動することにした。少しためらってから喜美の方に一歩踏み出し、ぎこちなくその身体を抱きしめる。


「え……え……? 涼ちゃん!?」


 喜美が思いっきりうろたえた様子でじたばたする。腕の中に収まってしまうとその身体はびっくりするくらい小さかった。こんなに小さい身体で、こいつはどれくらい大きなものを抱え込んでいたんだろう。


「……ずっとわからなかった。自分が本当は、どういう気持ちでいるのか……」


 顔をうつむけ、ぼそぼそと呟く。静まり返った店内で、換気扇が回る音だけが妙に耳についた。


「最初は本気でうっとうしくて、できれば二度と関わりたくないって思ってた。だから店にも来たくなくて、なのにお前がしつこく誘ってくるからしょうがなく来て……。そう、自分では無理やり来させられたって感覚だったんだ。

 でもそれって、結局自分の気持ちをごまかしてただけなんだ。本当に嫌だったんなら連絡だって無視してたはずだし、美味い飯が食えるからって釣られたりしなかった。本当は……どこかでお前に会いたいって気持ちがあったんだと思う」


 外から誰かの笑い声が聞こえてくる。たぶん居酒屋帰りの大学生かサラリーマンだろう。23時を過ぎても人通りはそれなりに多いが、店内には俺と喜美の2人しかいない。


「お前に告白された時だってそうだった。お前のことがどうでもよかったら、本気かどうか考えてあんなにもやもやしなかった。それに、昌平とか岡君がお前を狙ってるってわかった時も変に落ち着かなくなって……今考えたら焦ってたんだよな。でもそれを認めるのが嫌だったから、何とも思ってない振りしてたんだと思う」


 あの時動揺した気持ちをもっと掘り下げていれば、もっと早く本心に気づけたのかもしれない。でも当時の俺はそれができなかった。うっとうしいと思っていたはずの奴が、いつの間にか別の対象にすり替わっていたなんて、間抜けすぎて認められなかった。


「それからバイト始めて、お前と一緒にいる時間が増えて、あの時は実際楽しかった。この時間がずっと続けばいいって思って……それで変に現状維持しちまったんだと思う。あの時さっさと返事しとけば、変に焦らせることもなかったのにな……。

 でも……この前お前が病気したの見て、お前でもこんなに弱るんだって知って……そっからちょっとずつ気持ちが変わった気がする。何て言うか……黙ってお前のこと見てるのが辛くなった」


 背中に回した手に自然と力が入る。喜美の身体が強張ったが、抵抗はしなかった。


「お前はいっつも明るくて、悩みなんか何にもないみたいな顔で笑ってるけど、本当は泣き虫で、料理のこととか店のこととか、いろんなことでいっぱい悩んでる。なのにお前は人にそういう面を絶対に見せない。

 何でだ? 明るい奴はずっと明るいキャラでいなきゃいけねぇとか思ってんのか? でもさ、そうやって1人でいろいろ抱え込まれると見てる方は辛いんだよ。自分が全然信用されてねぇって気になるし、何にもできない自分がすげぇ情けなく思えてくる」


 切り出し方を迷っていたのが噓のように、言葉が次から次へとあふれてくる。話しても話しても勢いは収まるどころか加速する一方で、それと共に口調にも熱が入った。


「今回のことだっとそうだよ。売り上げ減ってることも店畳もうとしてることも、ずっと前からわかってたのに俺には一言も言わないで、そのくせ一緒にいる時はバカみたいに笑って、冗談ばっか言って……。

 それが嫌だったんだよ! お前が全部1人で抱え込んで、近くにいるのに、何もしてやれないのが……!」


 感情の高ぶりと共にどんどん早口になっていく。喜美が小声で何か言おうとしたが、俺はそれを遮って叫んだ。


「俺はお前より8歳も年下で、社会にも出たことのない大学生のガキで、頼りないって思われてるのかもしれないけど、それでもこういう時くらい頼ってほしいんだよ! 悩んでること迷ってることとか、抱えてないでちゃんと吐き出してほしい! アドバイスとかはあんまりできないかもしれないけど、それでも全部受け止めるから!

 俺はこの食堂がなくなるのは嫌だし、お前がいなくなるのはもっと嫌で……。だから俺は……、俺は……!」


 止まらない言葉に何とか収集をつけようと必死に言葉を探す。ようやく捕まえたその一言を、俺はため息と共に吐き出した。


「……お前の器になりたいって、そう思うんだよ」


 その言葉を口にした瞬間、喜美の肩から力が抜けた気がした。俺もようやくまくし立てるのを止めて喜美の身体から手を離した。

 換気扇はいつの間にか止まり、酔っ払いの声も聞こえなくなっている。あれからどれくらい時間が経ったのだろう。1分にも、1時間にも思えた。

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