12−6

 しばらくは普段と変わらない時間が過ぎた。開店後20分が経っても店に客は来ず、テレビの音だけが会話のない店内に聞こえている。


 喜美はいつものように下拵えをしていたが、一通り済んでしまうと大きく息を吐いて天井を仰いだ。


「ふう……今日も暇だねぇ。っていうか涼ちゃん大丈夫? 暇すぎて寝てない?」


「寝てねぇよ。目ぇ開いてるの見えねぇのかよ」


「だってほら、世の中には目開けたまま寝る人もいるって言うから! 実は今も寝ながら会話してるんじゃないかと思って」


「俺そんな器用じゃねぇから。つーか無駄話してる暇あったら仕込みしろよ。客来て忙しくなっても知らねぇぞ」


「うーん……。でも最近食材余ることの方が多いからさぁ。やっても無駄かなとか思っちゃって」


 喜美がいつになく弱気になっている。空元気で隠しきれないほど追い込まれているということだろうか。


「……ね、涼ちゃん、もし暇すぎるのが嫌なら、いつでもバイト辞めていいんだよ」喜美がおもむろに切り出した。


「何だよいきなり。今まで散々引き留めてきたくせに」


「そうだけど……あたしのワガママに涼ちゃん付き合わせちゃうのも悪いかなって思ってさ。お給料だってあんまり出せないし、もっと割のいいバイト他にあるよね?」


「さぁ……どうだろう。バイトの時給なんてどこも似たようなもんじゃねぇの」


「でもさでもさ、うちみたいな暇な店で働いても涼ちゃんのためにならないよね? 涼ちゃん次3年生でしょ? 就活対策するならもっと働きがいあるお店の方がいいって!」


 今になって必死に転職を勧めてくる喜美が何とも痛ましい。やっぱりこいつは最後まで1人で抱え込むつもりなんだ。


「……心配するのは勝手だけど、俺は辞めねぇから」俺は宣言するように言った。

「せっかく慣れたのにわざわざ他の店行こうとは思わねぇよ」


「でも……」


「何だよ。そんなに俺に辞めてほしいのか?」


「そんなことないよ! 最後まで一緒に働いてほしい! けど……」


「ならそれ以上ぐちゃぐちゃ言ってねぇで働けよ。あと最後とか言うな」


「でも……涼ちゃんだって気づいてるでしょ? うちの店、最近お客さん減ってるって……。いつ潰れてもおかしくないんだよ?」


「潰れやしねぇよ。お前がそんな弱気になってどうすんだよ」


「だって……!」


「すみません。もう営業していますか?」


 口論になりかけていたところで入口から声が飛んできた。喜美が慌てて言葉を飲み込んで満面の笑みを作る。


「あ、すみません! もちろんやってますよ! 何名様で……」


 言葉尻が切れたのは入口に立っている客の姿を見たからだろう。そこには三十代くらいのスーツ姿の男性が立っていた。以前にもここに来たことがある人だ。


「あれ? あなたはえーっと……そう、山本さん!」喜美が両手をぱちんと合わせた。

「お久しぶりです! 前に来られたのって確か去年の春くらいでしたよね?」


「ええ、ご無沙汰していて大変失礼しました」山本さんが頭を下げた。

「前々から来ようとは思っていたのですが、仕事が忙しくてなかなか時間が取れなかったのもので」


「そうなんですか! でも嬉しいです! まだうちのお店のこと覚えててくれたんですね!」


「もちろん忘れてはいませんよ。白井さんには大変お世話になりましたから」


 山本さんが目を細めて笑う。

 この人が店に来たのは去年の5月頃だっただろうか。いかにも悲哀のあるサラリーマンといった雰囲気を漂わせていて、実際仕事も家庭も上手くいっていない様子だった。でも、喜美の料理を食べたことで大事なことを思い出し、その後家庭の方は円満にいったらしい。今はあの時よりも顔色がいい。仕事の方も順調なのだろうか。


「今日は妻を連れてきてきたんです。妻もまた白井さんの料理を食べたいと言っていたもので」


 山本さんが言って身体をどかす。その後ろから小柄な女性が進み出てきた。ストレートの黒髪を肩まで伸ばした可愛らしい人だ。髪型のせいか日本人形みたいに見える。


「こんばんは。いつも主人がお世話になっております」奥さんが山本さんの隣に並んで深々と頭を下げた。


「以前、この食堂でいただいた卵焼きの味が忘れられなくて……。あれから自分でも何度か作っているですんけれど、なかなか上手くいかないですね」


「卵焼きは簡単そうで意外と難しいですからね。よかったらまた調理してるとこお見せしましょうか?」


「ぜひお願いします。主人に美味しい卵焼きを食べさせてあげたいんです」


 奥さんがにっこり笑って言い、隣に立つ山本さんに微笑みかける。山本さんも穏やかに笑みを返した。どうやら今も円満な関係は続いているらしい。

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