12−5

 それからさらに2週間が経ち、暦はとうとう3月を迎えた。寒さはまだ残っているものの日中は暖かい陽気の日も増え、ニュースでは早くも桜の開花情報が流れている。街では卒業式を迎えたらしい袴姿の大学生の姿がちらほら見られ、喋ったり写真を撮ったりしながら、学生最後の日を思い思いに楽しんでいる。


 よく晴れた3月10日の夕方、俺はバイトのためにたまご食堂に向かっていた。

 時刻は16時半。少し前まではこの時間になるともう日が沈んでいたが、今は昼が長くなってまだ明るさが残っている。気温も、少し前まではダウンジャケットが手放せなかったのが、今は薄手のコートでも過ごしやすい陽気になった。どこかの家の軒先では桜が芽を出し、中にはすでに花を咲かせている枝もある。街の至るところで春を感じながら、俺は歩き慣れたたまご食堂への道を歩いていった。




 食堂に着いたのは17時10分前くらいだった。店の引き戸を開けて中に入ると、音を聞きつけた喜美がいつものように厨房から駆け出してきた。


「あ、涼ちゃんおはよう……じゃなくてこんばんは? いやーこの時間に会うと何て挨拶したらいいか迷うね!」


「何で今さら挨拶で迷ってんだよ。もう何十回もこの時間に会ってるだろ」


「そうだけど……今日はなんか改まった気分なんだ! 春だからかな!」


 喜美がいつも通り陽気に笑う。春、という単語を口にする前に少し間があった。


「じゃ、俺は着替えてくるから。お前は仕込み続けてろよ」


 いつものように言ってロッカーに向かおうとする。だがそこで喜美が呼び止めてきた。


「あ……ちょっと待って涼ちゃん、実はね、今日大事な話があって……」


 足を止めて振り返ると、喜美が身体の前で手を揉み合わせてもじもじしていた。事情を知らなければまた告白されるのかと思っただろうが、今日こいつが言おうとしている内容はわかっている。年度末まで1か月を切り、いい加減例の件を伝えなければと思ったんだろう。


「あのね……涼ちゃん、実はあたし……このお店……」


 喜美がためらいながらも切り出そうとする。だが俺は片手を挙げて制した。


「あぁストップ。それ以上言うな」


「え?」喜美が目を丸くする。


「よくわかんないけど面倒な話なんだろ? だったらバイト終わった後にしてくれよ。今聞かされても仕事の邪魔になるだけだ」


「でも……そしたら涼ちゃん帰るの遅くなっちゃうよ」


「別にいいよ。どうせ大学は春休みだし」


「そっか……。じゃ、後にするね。あ、でも気になるならすぐ言ってね! 勤務時間中でも大丈夫だから!」


「何だよそれ。いつもは仕事に集中しろとか言うくせに」


「いいんだよ! どうせお客さんあんまり来ないし!」


 言ってから気まずそうに喜美が両手で口を塞ぐ。しばらくそうしていた後、やがて手を口から離して自嘲気味に笑った。


「……ごめん、変なこと言っちゃって。文句言う前にもっと頑張れって話だよね」


 後頭部に手を当ててへへ、と恥じ入るように喜美が笑う。俺は何と返事をすればよいか迷ったが、すぐに視線を逸らして言った。


「……心配しなくても、今日は話す暇ないと思うぞ」

「え?」


 喜美がきょとんとして見つめてきたが、俺は気づかない振りをしてロッカーに向かった。荷物を置き、エプロンを着けて戻ってくるとちょうど17時になっていた。喜美は厨房に戻って仕込みをしている。俺はいつも通りテーブル拭きから始めることにした。

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