11−11

「……涼太、お前さんの気持ちもわかるが、あんまり喜美ちゃんを責めるな」


 本田さんが眉を下げて言った。俺は睨みつけるように本田さんを見た。


「あの子はお前さんに心配をかけたくなかった。何も知らせないまま、今までと同じように楽しい時間を過ごしたかったんだ。だからお前さんには黙ってたんだろうよ」


「心配かけたくなかった? 店潰れかけてるのに心配するなとかいう方が無理でしょ! っていうか半分は俺のせいじゃないですか! 赤字の上にバイト代払わせたりして!」


 自然と声が大きくなる。本田さんに当たっても仕方がないことはわかっていたが、止められなかった。


「あの子が好きでやったことだ。お前さんのせいじゃねぇよ」


「でも……! 店がヤバいってこと知ってたらもっとできたことあったはずです! 大学の奴ら連れてくるとか、姉ちゃんの会社の人に来てもらうとか……!」


「喜美ちゃんはお前さんに情をかけられることなんか望んでなかったんだよ。あの子はただお前さんと一緒にいたかったんだ。わかってやれ」


 俺は黙り込んだ。確かに喜美自身、俺と一緒にいられるだけで幸せだと言っていた。下手に店のことを話せば、俺が辞めると言い出しかねないと思ったのかもしれない。

 でも、だからといって赤字を加速させるような真似をするなんて、どれだけバカで不器用なんだと文句の一つも言ってやりたくなる。


「……いつまでですか」


 俺は呟いた。自分でも驚くくらい掠れた声が出た。


「……あいつはいつまで店を続けるつもりなんですか? その後はどうするつもりなんですか?」


 つい責めるような口調になる。誰に向かって怒っているのか、自分でもわからなかった。


「……俺もはっきり聞いたわけじゃねぇけど、たぶん春くらいまでじゃねぇかな」本田さんが頭を搔きながら答えた。

「開店したのが5年前の4月で、3月でちょうど5年になるんだよ。年度末で切りもいいし、その辺りが引き際じゃねぇのかな」


「春……」


 そういうことか、と心臓を握り潰された気分になる。新年なんて関係ない。1年も一緒にいられないことは最初からわかっていたのだ。


「店閉めた後は京都に戻るんじゃねぇかな」本田さんが顎を擦りながら続けた。

「あの子の親御さんが京都で料亭やってんだろ? その跡を継ぎゃあ料理人は続けられるしな」


「でも……あいつは料亭の格式ばった感じが嫌だからこの食堂を開いたんですよ。手軽に美味しいものが食べれる店がやりたいって言って……。そんな簡単に戻るとは思えませんけど」


「だからって東京に居続けるのは現実的じゃねぇよ。家賃だって馬鹿にならねぇし、次の仕事の当てだってない。まぁ、あの子の腕なら就職先を見つけるのは難しくねぇかもしれねぇが、雇われの身じゃあ今みたいに好きなようにはできねぇ。まだ親元の方が自由にやれると思うんじゃねぇかな」


 確かにそうかもしれない。たまご食堂が潰れてしまれば、喜美をこの街に縛りつけるものは何もなくなるのだ。知り合いのいない土地でまた一から仕事を始めるよりも、馴染みのある地元で、家族に見守られながら料理人を続けた方があいつも幸せなのかもしれない。でも――。


(あいつが……いなくなる?)


 当たり前のように顔を合わせ、軽口を叩き、おざなりに挨拶をして別れる。そんな日々が終わるというのか。食堂でのバイトも、あいつの料理も、あいつとの時間も、何もかもなくなるというのか。次の春に、この3月に――。


「……涼太、いろいろと思うことはあるだろうが、喜美ちゃんには何も言うんじゃねぇぞ」


 本田さんが諭すように言った。


「あの子もいずれは自分の口からお前さんに話すだろう。でもそれまでは何も言うな。今までと同じようにあの子に接しろ。それがあの子のためだ」


「でも……」


「あと2か月のことなんだ。あの子の気持ちも察してやれ。それが男ってもんだ」


 達観したような本田さんの顔を見て、俺は納得できないながらも黙り込んだ。この人は俺達の間にあったことも全て知っているのかもしれない。


「……じゃ、俺はそろそろ行くぜ。飯、食いそびれちまったな」


 本田さんが言って足早に食堂を出て行く。開いた引き戸から北風が吹き込んできたが、寒いと感じる余裕もなかった。


 一人取り残された俺は、呆然として店の真ん中で突っ立っていた。打開策を考えたいのに、現実を拒むように頭が少しも働かない。

 代わりに視線を動かすと、見慣れた食堂の光景が視界に広がった。木製のテーブル席、壁掛けにされたメニューの板、ニュースや漫才番組を流していた小型テレビ、たまに打ち間違えたレジ、何度も座ったカウンターの前の丸椅子、客席を仕切るカーテン、そして厨房。

 

 こじんまりとした質素な食堂。喜美の願いが詰まった、喜美の存在が息づく場所。


 今日は立春。春は遠いようですぐそこだ。次の春を迎えればこの場所は消える。代わりにどんな店が建つかはわからない。個人経営の新しい食堂か、やはりチェーン店か。

 でもどんな店ができたとしても、ここと同じ空間を作り出すことは絶対にできない。


(俺は……どうしたらいいんだろう)


 締め切っていない引き戸から隙間風が入ってくる。暖かいはずの店内が、急速に冷えていく気がした。

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