11−7

 その後、脱兎の勢いで廊下と階段を駆け抜け、住宅街の中ほどまで来たところでようやく俺は立ち止まった。膝に両手をついて息を切らす。外は寒いのに汗だくだ。未だに心臓がバクバクいっているのは全力で走ったせいだろう。


(……ダメだ、マジで今日調子狂ってる。早く帰ろう)


 バイトもなくなり、他の予定は何もない。家に帰ってストーブに当たり、ポッキーを食いながらごろ寝する生活に戻ろう。そうすればいつもの自分を取り戻せる。


 俺は呼吸を整えつつ、ズボンの尻ポケットを探って財布を取り出そうとした。ここから俺の下宿先までは電車で2駅。歩けない距離ではないが、今は一刻も早くここから離れたい。でも俺の願いも虚しくポケットに財布は見つからなかった。


「……あれ? 落とした? 噓だろ……」


 ズボンの前側やコートの方のポケットをひっくり返してみるが結果は同じだった。鞄はそもそも持ってきていないから他に入れるような場所はない。もしや喜美のマンションに忘れたのだろうか。でもあの部屋では財布を取り出していないはずだ。


 記憶を辿った結果、午前中に養鶏場への支払いをした時、レジに小銭がなかったので自分の金で両替したことを思い出した。その時に店に忘れたのだろう。あいつを思い出させる場所にまた行くのは気が進まなかったが、さすがに財布は放置できない。


 俺は深々とため息をつくと、重い足を引き摺るようにして歩き出した。




 たまご食堂は喜美のマンションから10分くらい歩いたところにある。当たり前だが店内には誰もいなかった。いつもは喜美の元気な声が響いている店内が静かなのは何とも奇妙で、自分が全然知らない場所にいるような気分にさせられる。


 財布は予想通りレジの横に置かれていた。一応中身を確認したが何も盗られていなかった。ほっとして尻ポケットに突っ込み、すぐに店を出ようとしたところで足を止めた。レジ横に置かれた日めくりカレンダーが目に入る。2月4日。今日は立春だ。


(春まで、か……)


 喜美の願い事。春まで俺と一緒にいたい。あいつが具体的にいつを想定していたのかはわからないが、おそらく今日ではないはずだ。俺が急にいなくなったら、あいつはきっと寂しがるだろう。――さっきみたいに。


(……あいつがどういう意図であれを書いたかはわからない。でも……それがあいつの願いなんだったら、俺の方から離れるべきじゃないのかもしれない。俺には……あいつの幸せを奪う権利なんてないんだから)


 それが喜美を殻に閉じ込め、別の奴と出会う可能性を遠ざけてしまうことを思うと罪悪感を覚えはする。でも、元はといえば俺が悪いのだ。告白された時にすぐに断っておけばこんなにずるずる引き摺ることもなかった。この店でバイトをすることもなく、俺が店に来なくなって関係は終わっていただろう。


 それをここまでこじらせてしまったのは俺の責任だ。だったらせめて、自分の罪悪感には蓋をして、一緒にいたいというあいつの願いくらいは叶えてやるべきなのかもしれない。

 そして、喜美の前にもっといい相手が現れたら、今度こそあいつとは二度と会わない。あいつとの時間がなくなるのは正直少し物足りないが、仕方がないだろう。俺はあいつの彼氏にはなれないんだから。

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