11−6
異様に長く感じられる時間を過ごした後で俺はようやく喜美の部屋を出た。喜美は卵粥を食べている途中で寝てしまい、粥は半分ほど残っていた。林檎は一口囓っただけだ(ちなみにこれは自分で食べさせた)。残った卵粥と林檎は冷蔵庫にしまうことにした。
「……とりあえず用事も済んだし帰るか。はぁ……なんか疲れたな……」
大したことはしていないはずなのにバイト後よりずっと疲労感がある。きっと気疲れだろう。
「……あいつ一人にして大丈夫かな。っつってもいつまでもいるわけにもいかないしな……」
せめて起きるまで待っているべきだろうか。でもそれで夜になってしまったらさすがにまずい。万が一近所の人にでも見られたら変な噂を立てられてしまう。
「……寝てる間にこっそり帰るか。鍵、どっかにあるかな……」
記憶を辿り、寝室の机に鍵束が置いてあったことを思い出す。あの中に家の鍵もあるだろう。勝手に持ち出すのは気が引けるが、外から鍵をかけた上で郵便受けにでも入れておけば問題はないはずだ。そう考えて俺は寝室に向かった。
喜美を起こさないようにそっとドアを開けて中の様子を窺う。喜美はよく眠っているようで、口からすうすうと寝息を立てていた。このまま熱が下がってくれるといいんだけどなと思いながら俺は机に向かった。
鍵束はすぐに見つかった。どこで買ってきたのか、半分に切ったゆで卵のキーホルダーが付いている。とことんこだわる奴だなと俺は苦笑したが、そこで隣にあるノートが目に入った。遠目からだとレシピノートに見えたそれはどうやら日記のようで、日付の隣に5行くらい文章が書いてある。これは見てはいけないやつだと思ってすぐに目を逸らそうとしたが、1行目に書かれた文章が目に飛び込んできて思わず動きを止めた。
『☆今年のお願いごと☆ 春まで涼ちゃんと一緒にいられますように!』
日付は今年の1月1日。文字の隣には男と女が手をつないでいる下手くそな絵が描かれている。たぶん俺と喜美を描いたものだろう。図らずも喜美の内心を見てしまって俺は気まずくなって急いで日記を閉じた。
(これ……やっぱりそういうことなのか……? あいつ、まだ俺のこと……?)
年末に告白を断り、年が明けて会った時には喜美は綺麗さっぱり俺のことを清算していたように見えた。でも実際には、どこかで未練を感じているんだろうか。一人暮らしの部屋に上げたのも、お粥を食べさせてほしいなんて言ってきたのも、どこかでそういう関係になることを期待していたから――?
(いやでも、俺ははっきり言ったんだ。あいつとは付き合えないって。俺に期待しても無駄だって、わかってるはずなのに……)
だけど、当の俺自身があいつに期待させるようなことをしてしまっていたらどうだろう。例えば今日、俺が見舞いに来たのは単純に頼まれたからで、柄にもなく優しくしてしまったのはあいつが見るからに弱っていたからだ。そこに他意は一切ない。
でも、喜美の方はそう思わないかもしれない。下手に優しくされたせいで気持ちがぶり返し、また無駄な恋心を持たせてしまうかもしれない。でも、そんな風に気持ちを寄せられても俺は応えることはできない。俺とあいつは店長とアルバイト。それ以上の関係にはなれないのだ。
(……やっぱりバイト辞めた方がいいのかな。これ以上あいつと一緒にいて期待持たせんのも嫌だし……)
俺にバイトを続けるよう頼んだのは喜美だ。俺自身、あいつと一緒にいるのが楽しかったから続けることに同意したが、本当に喜美のことを思うならこのまま別れた方がいいのかもしれない。
でも、喜美本人はたぶんそれを望んでいない。あいつは俺と一緒にいられるだけで幸せだと言っていた。だから日記にもあんな願い事を――。
「……あれ、でも何で春までなんだ?」
ふとした疑問が浮かんで思わず声に出していた。確認のために少しだけ日記を捲る。ページには確かに春までと書かれている。でも新年の願掛けなら1年と書いた方が自然な気がする。それとも春に何か意味でもあるんだろうか。
「りょお……ちゃん……」
急に名前を呼ばれて俺はびくりと肩を上げた。起こしてしまったのかと思って振り返ったが、喜美は相変わらず寝息を立てていた。ただの寝言らしい。
「……何だよ、驚かすなよ」
安堵の息をついて肩を落とす。日記を見たのを気づかれたかと思って冷や冷やした。
「……にしてもこいつ、すげぇ幸せそうな顔して寝てんな」
ベッドに近づいて喜美の顔を見下ろす。喜美は今にも召されそうなくらい安らかな顔で眠っていて、時々ふふっと笑い声を上げている。きっと店が繁盛している夢でも見ているんだろう。俺は表情を緩めて息をつくと、喜美を起こさないようにそっとベッドから離れようとした。
その時、急に手に冷たいものが触れて俺は驚いて振り返った。喜美が左手で俺の手首を摑んでいた。幸せそうだった顔が一転して苦しげになり、眉間に皺を寄せている。
「行っちゃダメだよぉ……。りょおちゃあん……。一緒にいてよぉ……」
震える声でそんなことを呟き、目尻にみるみる涙が溜まっていく。反対側の手が少しだけ伸ばされたが、すぐにぱたりと音を立ててベッドに落ちた。
それを見た瞬間、俺は自分の中で何かが弾けたような気がした。大急ぎで喜美の手を振り払い、鍵を放り投げて部屋を飛び出す。後ろで喜美が何か言った気がしたが、振り返ることもせずにリビングを突っ切って乱暴に玄関の扉を閉めた。
喜美を起こしてしまうかもしれないとか、鍵をかけるのを忘れたとか、そんなことを考える余裕もなかった。
これ以上あいつと一緒にいたら、何かとんでもない間違いをしてしまう気がした。
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