第11話 お熱いうちに、卵がゆ

11−1

 2月4日。暦の上では今日は立春らしいが、実際にはまだまだ冬真っ盛りでコートなしでは外に出られない。北風が吹き荒ぶ屋外では春を探すような余裕もなく、大抵の人は家に引き籠り、炬燵に入ってみかんを食べるという冬の風物詩を満喫しているのだろう。


 俺、笠原涼太かさはらりょうたの過ごし方も似たようなものだ。一人暮らしのマンションには炬燵を置くスペースはないが、代わりにストーブの前で寝転がってみかんの代わりにポッキーを食べている。実家だったらまず姉ちゃんか母さんに怒られる格好だが、今はぐうたらしていても誰も怒る人間がいないので楽だ。


「あー……にしても寒い。外行きたくないな……」


 身体をごろりと横に向けながらスマホのカレンダーをチェックする。今日は夕方からたまご食堂でバイトが入っている。今は午前10時前で、そろそろ開店する時間だろう。


「バイト休みたいな……。どうせあんまり客来ないだろうし……」


 ここのところたまご食堂は客足が落ちている。エッグベネディクトやプレーンオムレツに加え、キッシュや親子丼と立て続けに新メニューを出し、一時的に客の入りは増えたものの最近はまた不調のようだ。みんな寒くて家に引っ込んでいるのか、他の店に流れてしまっているのかはわからないが、日々の売り上げは目に見えて減っている。でも店長の喜美きみは意外と気にした様子がなく、「きっとみんな冬眠してるんだよね!」と謎の理屈で自分を納得させていた。暖かくなれば客が戻ってくると楽観的に考えているのかもしれない。


 俺が憂鬱な気持ちでスマホを眺めていると、急にカレンダーが消えて着信画面が表示された。噂をすれば喜美からだ。こんな時間に何だろうと思いながら俺は通話ボタンを押した。


「もしもし?」

『あ゛―……りょ゛おぢゃん?』


 ものすごいガラガラ声が電話口から聞こえてきたので俺は思わずスマホを離した。知らないじいさんからの間違い電話かと思ったが、名前は間違いなく喜美と表示されている。


「お前どうしたんだよ? ひどい声してるぞ」

『い゛やー、それがさー、な゛んががぜひいぢゃっだみだいで……』


 おそらく風邪を引いたと言いたいのだろう。通話口から咳き込む声がする。


「風邪って……大丈夫なのか? 熱は?」


『ざっぎはがったらざんじゅうぎゅうどあっだ。いまぐずりのんだどご』


「39度!? めちゃくちゃ高熱じゃん。病院行った方がいいんじゃないのか?」


『う゛―ん……。でもぞどでるのもづらいがら、いえでねでだほうがいい』


「まぁそれもそうか……。でもそんな状態じゃ店開けられないよな」


『う゛ん。ぞれでりょうぢゃんにでんわじだんだ。わるいげどおみぜいっで、ぎょうやずみますっではりがみじでぐれない?』


「休業の張り紙な。わかった。すぐやってくるよ。他に何かあるか?」


『あどは……じゅういじぢにようげいじょうざんがぐるがら、だまごうげどっておがねはらっでほじい』


「養鶏場さんに卵の代金の支払いな。他には?」


『あどは……、う゛―ん、ごんなにいっばいだのんじゃっでい゛いのがなぁ?』


「いいから言えよ。病気なんだから遠慮すんな」


『う゛―ん……、じゃあ、ぐだものがっでぎてぐれない?』


「果物?」


『う゛ん。ぐだものはびだみんほうふだじ、ごうぞがおおいがらしょうがをたずげでぐれるんだよ』


 果物はビタミンが豊富で、酵素が多いから消化を助けてくれる。病気でも効用を忘れないとはさすが料理人だが、今はそんな説明してる場合じゃないだろと言いたくなる。


「わかった。果物買っていくから。何か食いたいもんとかあるか?」


『んー……べろん』


「メロンな。他には?」


『あどは……びんご』


「林檎な。他には?」


『みがんもあっだらうれじいげど……だべれるがわがんないじむりじなぐても……』


「食べれるかわかんないんだったら種類あった方がいいだろ。とりあえず盛り合わせかなんか買っていくから」


『ありがど……。おがねあどでぢゃんどはらうがら……』


「あぁもうそういうこと気にしなくていいから。とりあえず寝てろ」


 家の場所を聞いてから俺は電話を切った。喜美のガラガラ声が聞こえなくなると、部屋が急にしんとしたように感じられる。


(……にしても、あいつでも風邪とか引くんだな)


 普段は元気すぎて病原菌の方から逃げていきそうなのに、電話で聞いた喜美の声はよぼよぼのじいさんみたいだった。声だけでも弱っているのがわかる。


(……とりあえず早く行くか。ほっといて倒れられても困るしな)


 俺はストーブを消してポッキーをしまうと、コートを取りにクローゼットへと向かった。

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