10−13
その言葉を聞いた瞬間、身体に溜まっていた緊張感を吐き出すように俺の口から大きな息が漏れた。喜美は信じられないように目を見開いて珠子さんを見つめている。
「……よかったな」
俺はぼそりと言い、何事もなかったかのように茶を啜った。が、その一言が喜美の中の何かを刺激したらしい。弾かれたように俺の方を見るといきなりダッシュして飛びついてきた。
「うわああああああああああああああああ! 涼ちゃああああああああん!」
エプロンの胸に顔をくっつけてそんな絶叫を上げるので俺は耳が割れそうになった。急いで湯呑を置いて喜美の肩を摑んで引き離そうとする。
「ちょ、うるせぇって! 耳元で叫ぶな! つーか離れろ! エプロン汚れるだろ!」
「だって……だって……うわあああああああああああああああああ!」
「だから叫ぶなって! つーか鼻水くらい拭け! 顔ぐっちゃぐちゃだぞ!」
「うわあああああああああああああああ!」
「あぁもううるせぇ……」
俺は喜美を引き剥がすのを諦めて泣き止むのを待つことにした。涙と鼻水のせいでエプロンがぐっちゃぐちゃだ。余計なこと言うんじゃなかったとため息をつきたくなる。
「涼太はん、うちの子……」
横から珠子さんの声がした。俺はぎくりとして再び喜美を引き剥がそうとしたが、喜美は引っ付き虫みたいにぴったりくっついて離れない。いや、さすがに母親の前でこの体勢はまずいって。
「あ、すいませんその、俺、その、本当にそんなつもりじゃ……」
「わかってます。うちはただお礼が言いたかったんどす」
「お礼?」
「はい。さっきの話聞いてようわかりました。涼太はんはこの店のことも、この子のことも大事にしてくれてはる。せやからうちも、ええ加減腹決めなあかんと思ったんどす」
「はぁ……」
俺は気まずくなって頬を搔いた。柄にもなく喜美のことを褒めたせいで、喜美のよき理解者みたいに思われてしまったらしい。でもあれはあくまで料理人としての喜美を褒めただけであって、それ以上の意味合いはない。
「あの……誤解のないように言っときたいんですけど、俺は本当にただのバイトですよ。白井さんのことは何とも……」
「わかってます。済んだ話を蒸し返そう言うんやありません。でも、この子にはやっぱり涼太はんが必要なんやと思います。せやから涼太はん、これからも喜美ちゃんの傍にいてくれはりませんか?」
「いや、でも……」
「何も大仰なこと求めてるんやありまへん。この子の傍にいて、この子の料理を食べてくれはったらええんどす。それだけでこの子は頑張れる思いますわ」
「はぁ……。まぁ、それくらいなら」
「ありがとうございます。ほな今後も喜美ちゃんのこと、よろしゅうお頼み申します」
珠子さんが椅子から立ち上がって深々とお辞儀をする。そのままからころと下駄を鳴らして入口の方に向かったので、「あ、お母さん待って!」と喜美がようやく俺から離れて後を追った。そのまま2人して店を出て行く。
1人取り残された俺は、呆然として閉まった引き戸を見つめていた。
簡単に約束してしまったが、本当によかったのだろうか。さっきみたいに抱きつかれたところで、俺には喜美を抱きしめてやることも、背中を撫でてやることもできない。でも俺がずっとあいつの近くにいると、あいつは俺がそういう役目をしてくれると勘違いして、結局いつまでも前に進めないんじゃないだろうか。
俺はしばらく考え込んでいたが、そのうち首を振って空になった2つの丼を片づけ始めた。カウンターを拭いてからお冷も流しに運ぶ。喜美が戻ってくる気配はない。表で珠子さんと話し込んでいるのだろう。その方がいい。今顔を合わせるとまた気まずくなってしまいそうだ。
(……俺はあいつとどうにかなる気はない。でも……あいつに新しい男ができるまでのつなぎでいいんだったら……、エプロンくらいは汚してやってもいいか)
俺は気が進まないながらもそう考えると、流しに溜まった食器を洗い始めた。
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