10−12

 珠子さんは何も言わなかった。両手で湯呑を持ってお茶を啜り、口の中でしばらく転がす。会話が途切れたことで急に気詰まりになり、俺は間を持たせようと自分もお冷に口をつけた。厨房から聞こえる水の音は消えている。きっと皿洗いが終わったのだろう。


「……そうですか。ようわかりました」やがて珠子さんが言った。


「あの子もちょっと見いひんうちに、一端の料理人になった言うことなんやね……。卵の殻一つ割れんかったあの子が……」

 珠子さんがしみじみと言い、目を細めて親子丼を見つめる。しばらくそうしていた後、おもむろに箸を手にして再び親子丼を摘んだ。一口、また一口と口に運び、時間をかけてじっくりと咀嚼する。

 やがて口の中のものを全て飲み込んだところで、珠子さんは箸をお盆に戻して合掌した。丼の中身は空になっている。


「本間はね、試験なんてする必要はなかったんどす」珠子さんが静かに言った。


「最初にうちが店に来た時点で、あの子は昔とは比べもんにならんくらい上達してましたから。親子丼かて、1回目に作った時点でうちの料亭に引けを取らん味が出せてました。

 それでもうちは合格を出しませんでした。何でかわかります?」


「さぁ……。まだ一人前じゃないから、ですか?」


「逆どす。あの子はとうに一人前の料理人でした。生まれつき不器用やのに、こんなに美味しい料理をようさん作れるようになったんやからね。

 でもうちはそれを認めたくなかったんどす。うちにとって喜美ちゃんは、いつまでも不器用なちいちゃな子どものまんまで、やからこそ料亭を継がせて大事に育てていきたかったんです。

 せやのにあの子は、知らん土地に行って自分の店を持って、うちらの助けなんか借りんでも立派にやってる。それが悔しゅうて、意地悪して親子丼を店で出させんようにしたんどす。悪い母親やね」


 珠子さんはそう言って自嘲気味に笑ったが、俺は笑う気にはなれなかった。


 試験の話を聞いてからずっと不思議だった。何の料理を作らせても上手い喜美が、どうして親子丼だけいつまでも合格をもらえないのだろうかと。てっきり他の料理よりも基準が厳しいせいかと思っていたが、実際は違った。全ては娘を手放したくない親心ゆえだったのだ。


「喜美ちゃん、聞いてたんやろ? そろそろ出てらっしゃいな」


 珠子さんが厨房に向かって声をかける。少し間があった後で喜美がおずおずと厨房から出てきた。珠子さんの傍に立ち、無言のまま上目遣いに見つめる。


「あんたが頑張ってきたんは最初からようわかってました。でも私の意地悪で嫌な思いさせてもうて、堪忍ね」


 珠子さんが両手を膝の上で揃えて深々と頭を下げる。喜美は黙って首を横に振った。


「本間はね、今年も不合格にするつもりやったんどす」珠子さんが続けた。

「親子丼が店で出せへんてわかったら、あんたもええ加減諦めて戻ってきてくれるんやないかと思って。

 でも、そない心の狭いことしてたら、あんたと、あんたの料理を大事にしてくれるお客さんに失礼やってようわかりました。やからうちも、ここでちゃんとけじめをつけることにします」


 珠子さんがしゃんと背筋を伸ばし、つられて俺も姿勢を正した。喜美の顔に緊張感が走り、唾を飲み込む音までもが聞こえた。


「親子丼、合格どす。今後は店で出してもよろしおす」


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