10−10

 間もなく厨房から出てきた喜美がお盆に乗った親子丼を俺と珠子さんの前に置いた。ほかほかとしたご飯の蒸気が丼から立ち昇り、食べる前から身体を温めてくれる。


「じゃ、あたしは奥で洗い物してるから! ごゆっくり!」


 喜美はそれだけ言うと、逃げるように厨房に引っ込んでしまった。カーテンが素早く閉められ、次いで勢いよく水が流れる音がする。珠子さんの批評を聞くために客席で待機するものと思っていた俺は拍子抜けした。


「……行っちまった。いいんですか? ほっといて」俺は珠子さんに尋ねた。


「まぁ、聞くのが怖い気持ちはようわかります」珠子さんが頷いた。

「今年があかんかったら、もう自分の店で親子丼出すんは諦めえ言うてますから」


「そうなんですか?」


「はい。せやからあの子がこの試験を受けるんも、今年が最後いうことになりますなぁ。あの子がこの一年間でどんだけ頑張ってきたか、集大成を見せてもらうことにしましょ」


 珠子さんが言って箸を手に取り、上品に合唱してから親子丼に箸をつける。

 俺は首を捻りながらその様子を見つめた。3回受からなかったら失格だなんて随分厳しい話だ。料理人の世界はそれだけ厳しいのだろうかと俺は訝ったが、珠子さんが親子丼を食べ始めてしまったのでそれ以上は質問しなかった。自分も箸を手に取り、熱々の卵に切り込みを入れてご飯と一緒に口に放り込む。


 口に入れた瞬間、それが今まで食べた親子丼とは比べ物にならないことがわかった。鶏肉にはしっかりと火が通り、それでいて水分は残っているのでふっくらしており、噛むたびに肉汁がじゅわっと溢れ出してジューシーな味わいを広げていく。玉ねぎは辛みが消えてほんのりとした甘みが内から染み出し、なおかつ硬さも残っているのでしゃきしゃきとした食感が耳にも心地よい。

 だが何より注目すべきはやはり卵で、舌に触れるたびにふわっと溶けるようで、噛むと今度はとろっとした卵液が飛び出すという絶妙な半熟具合を実現していた。白身がまだらに残った卵液は色鮮やかで、食材に絡んだ甘辛いタレが鼻をくすぐり、目から鼻から口から旨味と香ばしさを伝えていく。


 あんまり美味いので箸がどんどん進み、俺は昼飯を食ったことも忘れて親子丼を掻っ込んだ。中途半端に胃袋が満たされていたせいで半分くらい食ったところで腹がいっぱいになってきたが、それでも残したくなかったので全部食べた。こんなご馳走にありつけると知ってたら昼飯にカップラーメンなんか食うんじゃなかった。


「えらいええ食べっぷりですなぁ、涼太はん」


 横から珠子さんの声がして、料理に夢中になっていた俺は急いで顔を上げた。珠子さんが感心したような顔で俺を見ている。丼の中身は3分の1ほどしか減っていない。単にゆっくり味わっているのか、それとも口に合わないのかどちらだろう。


「あ、すいません……。美味かったんでつい……」


「構やしません。お客さんが喜んでくれはるのはうちとしても嬉しいですから。それにしても涼太はん、本間にうちの子の料理を気に入ってくれてはるんやねぇ」


「……まぁ、そうですね。何だかんだ言って10か月くらいこの店通ってますし」


「それはおおきに。涼太はんみたいな若い人がご贔屓にしてくれはるのは有難いです」


「別に贔屓にしてるつもりはなかったんですけどね。気づいたら毎月通ってただけで」


「それでも有難いのは変わりまへん。せっかくやから、この食堂のどこをそない気に入ったんか教えてくれはりません?」


 俺は黙り込んだ。自分がたまご食堂をどこを気に入っているか、それを話すことは、俺の喜美に対する見方をを打ち明けることにもつながる。喜美の母親に対してそれを話すことには抵抗があったが、真剣な顔で俺を見つめている珠子さんを見るとごまかしてはいけないと思った。

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