10−6

 客が珠子さんしかいないせいで店の中は静まり返っている。テレビでも点けようかと思ったが、何となく珠子さんが嫌がりそうな気がして止めた。珠子さんはメニューを渡してから15分以上眺めている。迷っているというよりは、一つ一つの品を入念にチェックしているようだ。


「あの……ところで、珠子さんはどうしてこの店に来られたんですか?」


 俺は気詰まりな沈黙から逃れようと尋ねた。客が1人しかいない状況ではテーブルの拭き掃除などをしていてもすぐに終わってしまい、時間を持て余していたのだ。


「あぁ、この子の試験のためどす。毎年1回、新年早々にする約束にしてまして」


「試験?」


「はい。この子の私が料理を食べて、お客さんに出しても恥ずかしゅうない味かどうかを確かめるんどす」


「はぁ。でも、この店の料理は十分美味いと思いますよ。俺もいろんなメニュー食ってきましたけど、どれも外れなかったですし」


「そう言うてくれはるんは有難いですけど、あの子に料理を教えた身としては、やっぱり自分の舌で確かめる必要があるんどす。いくら定食屋言うても、お客さんにええ加減なものをお出ししたらあきまへんので」


 それで毎年わざわざ京都から上京してくるのか。喜美の母親だけあって、料理には妥協を許せない性格なのかもしれない。


「えっと、それで、今日召し上がるものは決まったんですか?」


「はい。親子丼をいただけます?」


「親子丼? そんなのメニューにありましたっけ?」


「メニューにはありまへんけど、ここ3年間は毎回親子丼を呼ばれてるんどす。他の料理はお店で出してもええ言いましたけど、親子丼だけはまだ合格してまへんので」


「あぁ……だからメニューに載ってなかったんですね。卵料理の代表みたいなもんなのに不思議だと思ってたんです」


「実際、お客さんからも要望があるそうです。でも、親子丼はうちの料亭でも出してますから、それと同じ味が作れるようになるまでは合格させることはできんのどす」


 料亭の親子丼。普通の親子丼とどう違うのか想像もつかないが、再現するのは相当難しいんだろう。何せあの喜美が3年経ってもまだ作れていないのだ。


「じゃ、親子丼で伝えてきますね。注文はそれだけでいいですか?」


「はい。あ……それと涼太はん、できたらでええんですけど、ここで私と一緒に親子丼を食べてくれません?」


「え、俺もですか?」


「はい。うちは料亭ですから、どうしてもお客さんも年配の方が多うなりまして、若い人とお話する機会がなかなかないんどす。ほんでせっかくやから、涼太はんに率直な感想をお聞きしたい思いまして」


「はぁ……まぁ俺はいいですけど、他に客もいないですし」


「ほなよろしゅうに。涼太はんにはいろいろと訊きたいこともありますから」


 珠子さんが目を細めて笑いかけてくる。俺はその笑顔から逃げるように厨房に避難した。


「……つーわけで、俺も一緒に親子丼食うことになったけど大丈夫か?」俺は厨房で待機していた喜美に一連の会話を伝えた。


「うん、あたしは大丈夫だけど……涼ちゃんはいいの? うちのお母さんと2人きりになったら気まずくない?」喜美が心配そうに尋ねた。


「気まずいのは気まずいけど……たぶん大丈夫だろ。メインはお前の試験だし、例のことはもう終わってるしな」


 後半部分を強調して言い、ちらりと喜美の顔色を窺う。喜美は「そうだよね! 終わったことだもんね!」と言って頷いた。表情から真意は読み取れない。


「じゃ、お母さんの相手よろしくね。あたしも準備できたらすぐ実演調理始めるから」


「わかった。なるべく早くしてくれよ」


 頷いて厨房を出て客席に向かう。珠子さんはお茶を飲むように両手を上品に添えてお冷を飲んでいた。俺が近づいていくのを見ると待ち構えていたようににっこり笑いかけてくる。ダメだ、この笑顔はやっぱり怖い。

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