10−5
「……あのさ、この人お前とういう関係なんだ?」俺は喜美に耳打ちした。
「あれ、あたし涼ちゃんに言ってなかったっけ? この人はね、あたしのお母さんなんだ!」
「お母さん?」
「うん! 京都に『
「え、ってことはお前も京都出身なのか?」
「そう! 実はあたしは京女だったのです! 奥ゆかしいあたしにぴったりだよね!」
いや、お前のどこが奥ゆかしいんだよ。むしろ普段のノリは大阪人に近い気がする。
「喜美ちゃん、そちらさんは?」喜美の母さんが俺の方を見た。
「あ、お母さん紹介するね! こちらはアルバイトの涼ちゃん! 大学2年生で、9月からうちで働いてくれてるんだ!」喜美が俺の肩を叩こうとして、背が届かずに諦めて二の腕辺りを叩いた。
「さよですか。この子がいつもお世話になりましておおきに」喜美の母さんが両手を臍の前で揃えて深々と頭を下げた。「私はこの子の母親で、
「あ、どうも……アルバイトの笠原涼太です」
京都弁で丁寧にお辞儀をされ、俺も恐縮しながら頭を下げる。が、そこであることに気づいて顔を上げた。白井——珠子?
去年の春、初めてたまご食堂に来た時のことを俺は思い出した。たまご食堂を開いた理由について、喜美は自分の名前が卵に似ているからだと言っていた。白井喜美。しらいきみ。しろみきみ……。今、あの時と同じように、俺は珠子さんの名前を早口言葉のように脳内で繰り返した。白井珠子。しらいたまこ。しろいたまこ……。
「……白身玉子?」
「はい? 何ですのん?」
珠子さんが怪訝そうに眉を寄せる。俺は慌てて「何でもないです」と言って手と首を振った。喜美の方に視線をやると、きょとんとした顔で俺を見ていた。母親の名前も卵めいていることには気づいていないらしい。この親にしてこの子ありってわけか。
「でも、なんで家が料亭やってるのにわざわざ自分で食堂開いたんだ?」俺は喜美に尋ねた。
「やー、あたし料亭の格式ばった感じが苦手でさー。もっと手軽に美味しいもの食べれる店やりたいなって思ったんだよね」
「なら京都でやりゃあよかったじゃん。わざわざ上京してこなくても……」
「それはほら、あえて親元から離れたところで自分の可能性を試したかったんだよ! よく言うじゃん? 可愛い女の子には旅をさせよって!」
微妙に違う。そもそも子どもの側から言う台詞じゃない。
「ふふ。仲がよろしおすなぁ」珠子さんが微笑んだ。「でも涼太はん、この子の下で働いて苦労してはるんと違います?」
「別に苦労はしてないですよ。給料も休みもちゃんともらってますし、まかないもあるんでむしろ助かってます」
「ほなええんですけど。うちはてっきり、涼太はんはこの子と一緒にいたくないんやと思ってましたから」
「別にそんなことないですけど……何でそう思ったんですか?」
「涼太はんがこの子を振ったからに決まってますやないの」
珠子さんが眉一つ動かさずに言ってのける。いきなり冷や水を浴びせられて俺の表情が一瞬にして凍りついた。
「うちと喜美ちゃんは昔から仲がよろしゅうて、喜美ちゃんのとこであったことを何でも報告してくれるんどす」珠子さんが俺の動揺を読み取ったように言った。
「涼太はんとこの子の間にあったことは、うちもみな知っとります。うちの子が涼太はんに告白したんも、涼太はんがそれを断りはったんも」
珠子さんがおっとりと言って俺に微笑みかける。笑顔なのに背筋が凍りつきそうなほど怖い。これが京女の力なのか。
「もう、お母さん! そのことは前も言ったでしょ!」修羅場を察知したらしい喜美が慌てて言った。
「涼ちゃんはあたしが頼んでバイト続けてもらってるの! あんまり脅かすようなこと言わないでよ!」
「せやけど……大事な一人娘を振った男の人がいつまでも傍におる言うんもなぁ。あんたも見切りつけられへんやないの」珠子さんが頬に手を当ててため息をついた。
「大丈夫だよ! あたしはもう涼ちゃんのこと何とも思ってないから!」
「本間に? せやけどあんた、昨日もおみくじのことではしゃいで……」
「あーあーあーそれは言わない約束! それよりほら! 早く席座ってよ! あたしまだ仕込みの途中なんだから!」
喜美が大騒ぎしながらカウンターの一番手前にあった椅子を引っ張る。珠子さんは困った顔で小さく肩を竦めた後、下駄をからころと鳴らしながら席の方へ歩いていった。
(……何だ? 今の会話。まさかあいつ、まだ俺のこと……?)
真意を探ろうと俺は喜美の方を見やったが、喜美は俺と目を合わせないまま小走りで厨房に戻ってしまった。カーテンが閉じられた厨房から「涼ちゃん、お冷とメニューよろしく!」と声だけ聞こえたので、俺は訝りながらも指示に従った。
(……いやでも、俺、あいつのこと恋愛対象としては見られないってはっきり言ったし、さすがにないよな)
喜美がおみくじではしゃいでいたというのも、単純に恋愛運がよかったから喜んでいるだけだろう。俺のことは関係ない。
俺は何度もそう自分に言い聞かせると、気まずい空気を引き摺りながら珠子さんの席にお冷とメニューを運んだ。
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