9−13

 喜美は何も言わず、のろのろと屈み込んで床に落ちた包丁を拾い上げた。そのままじっと包丁を見つめているので、俺は一瞬刺されるんじゃないかと思って身構えた。が、喜美は何もせずに包丁を置いて振り返った。


「そっか、ありがとね涼ちゃん。はっきり言ってくれて」


 笑顔でそんなことを言われたからかえって俺は面食らった。恨みや怒りをぶつけられるならまだしも、礼を言われる理由がわからない。


「あたしもさ、もっと早く断られると思ってたんだよね。でもそれで涼ちゃんと会えなくなっても寂しいし、返事を聞きたいような聞きたくないような、微妙な気持ちだったんだよね。

 でも、涼ちゃんが保留にしてくれたおかげで年末まで一緒にいれたし、涼ちゃんがあたしといるの楽しいって言ってくれたのも嬉しかった。それだけであたしは十分幸せだよ」


 へへ、と照れたように笑う。笑顔がいつもと変わらないだけに俺はかえって居たたまれなくなった。いっそ罵倒された方がよかったくらいだ。


「……とりあえず今日はシフト入るけど、さすがに一緒にいるの気まずいよな。俺、今月いっぱいで辞めるから……」


 罪悪感から逃れるように言って厨房から出て行こうとする。だがそこで喜美が声をかけてきた。


「あ、そのことなんだけどさ、できればもうちょっとだけ続けてくれない?」


 俺は足を止めて振り返った。まじまじと喜美を見つめるが、喜美は発言を撤回しようとしない。


「……何で? 人足りないのか? なら他の奴連れてくるよ。昌平とか声かけたらすぐ来ると思うけど」


「あぁううん。そうじゃなくて……その、もうちょっとだけ涼ちゃんと一緒にいたくてさ」喜美がもじもじしながら言った。


「あ、未練あるとかじゃないよ! ただ、あたしも涼太ちゃんと喋るの楽しかったから、友達みたいな関係は続けたいなって思ってさ」


「友達って……お前はそれでいいのか?」


「いいよ! あたしは涼ちゃんと一緒にいられるだけで幸せだから!」


 喜美が元気よく言ってガッツポーズをする。たぶんそれも本心なのだろうが、今の俺にその台詞は辛い。


「いいけど……やっぱり嫌だと思ったらすぐクビにしろよ。俺も文句言わないからさ」


「大丈夫大丈夫! どっちかっていうと涼ちゃんの方が心配なんだよね。気まずいって思って勝手に辞めそうだし」


「さすがにバックレはしねぇよ。……まぁ、気まずいとは思うだろうけど」


「だよねー。でもほら、せっかく年末だし、この件は今年で終わりってことにしようよ! 新年からは関係もニューイヤーってことで!」


「ニューイヤー、なぁ……」


 俺はため息をついて天井を見上げた。正直気乗りする展開ではない。振った女の下でバイトを続けるなんて気まずいし、どんな顔してこれから会えばいいのかもわからない。でも、当の喜美がそれを望んでいるなら俺に断る権利はないだろう。


「お、そうこうしてる間にもう17時だね! 急いで準備しなくっちゃ! 涼ちゃんはテーブル拭きよろしくね!」


 喜美が俺に向かって台拭きを放り投げ、俺がそれをキャッチする。「ナイスショーット!」と言って親指を立てた後、喜美は包丁を洗って野菜を切る作業を再開した。途切れなく続く包丁の音は俺に口を挟む余地を与えないためのものだろうか。


 俺は途方に暮れたように喜美の背中を見つめた後、客席の方に視線を移した。綺麗に飾られた金色のモールと、カウンターにある食べ残されたキッシュが目に入る。

 クリスマス。1年に一度しかない、恋人達にとって特別な日。喜美はいったいどんな気持ちでこの日を迎えたのだろう。


 再び罪悪感が込み上げてくるのを感じながら、俺は厨房を出て客席に向かった。

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