9−12
香織が店を出て行った後、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。あいつが俺に振られてショックを受けているらしいことに驚いていたのだ。淡白な香織のことだから、振られたところで大して気にもせず、すぐに他の男を見つけるんだとばかり思っていた。
でも実際には、この1週間、あいつは俺の返事を考えて気が気じゃなかったのかもしれない。たった1週間でもそうなのだから、3か月も待たされた時にはどんなに落ち着かない気持ちでいるだろう。
俺はしばし迷ってから厨房に視線を向けた。仕込みをしているはずの厨房からは何の音もしない。今の会話は喜美にも聞こえていただろう。あいつがそれを聞いて何を思ったかはわからない。でも俺は、このまま自分の気持ちから逃げるような真似はしたくない。
息を吐き、ゆっくりと厨房の方に歩いていく。喜美は野菜を切っており、俺が入っていくと手を止めて顔を向けた。
「あれ、涼ちゃん? 今日上がっていいって言ったよね?」
手短に尋ね、また野菜を切り始める。香織との会話について突っ込んでくる様子はない。
「こんな中途半端な時間に帰れねぇだろ。忙しくなるのは今からだってのに」
「まぁそうだけどさ。でもよかったの? 彼女、せっかく会いに来てくれたのにさ」
「あいつは彼女じゃない。それにもう帰らせた。より戻す話もなくなった」
喜美が野菜を切る手を止める。俺は視線を落として続けた。
「……例の件、ずっと考えてた。もっと早く言うつもりだったけど……結局ギリギリになっちまって悪かった」
「……うん」
喜美がまな板を見つめたまま呟く。俺は大きく息を吐き出し、3か月間の結論を口にした。
「……ごめん、やっぱり、俺はお前とは付き合えない」
喜美の手から包丁が滑り落ちてまな板の上に落ちる。包丁がかんと音を跳ねて、そのまま勢い余って床に落ちる。喜美に拾い上げる様子はない。
「散々待たせたくせに振るとか自分でも最低だと思う。でも……それが俺の正直な気持ちなんだ。お前は俺にずっと殻を割れって言ってた。自分の素直な気持ちを出せって。だから俺も、試しに付き合うとか適当なことは言いたくなかったんだ」
言葉が虚しく厨房に落ちる。そうだ、本当はとっくに気づいてた。告白された後も、俺は喜美のことを恋愛対象としては見られなかった。それらしい雰囲気にならないとか、自分に都合のいい言い訳をして逃げていただけだ。
「本当は何回も言おうとした。でもできなかった。自分でも何でかわからなかったけど……さっきの実演調理見てやっとわかった。
俺……たぶん、お前と一緒にいるのが楽しかったんだ。お前としょうもないこと言い合って、たまに面倒くさい絡みされるけどそれはそれで嫌いじゃなくて……とにかくお前といる時間が気に入ってた。
でも付き合えないのはわかってたから、返事したら気まずくなって、この店に来られなくなると思った。それが嫌だったから、俺はずっと返事を引き延ばしてたんだ」
ずっと気づかなかった。喜美の存在は自分にとってうっとうしいだけで、切れるものなら切りたいとばかり思っていた。
でも、そう言いながらも自分はずっとたまご食堂に通い続けて、挙句バイトまで始めてしまった。単に流されただけだと思っていたが、実はそうではなかった。俺自身が、喜美と一緒にいることを望んでいたのだ。
「勝手だよな……。付き合う気もないくせに自分の都合で返事引き延ばして。マジで最低だと思う。でもこれではっきりさせたから、遠慮しないで違う男探したらいい。何なら俺のことクビにしてもいいし。今月の給料もいらないから」
俺はそう言って話を終えた。本心を全て出したはずなのに、少しもすっきりしないのはどうしてだろう。
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