9−11

 俺が話を切り出そうとしたまさにその時、後ろで入り口の引き戸が開いた。あまりのタイミングの悪さに舌打ちしたくなりながら俺は振り返る。


「あ、すいません。まだ準備中なんです。夜は17時からなんで……」


 言いかけて俺は口を噤んだ。知っている人間が入り口に立っていたからだ。顎の辺りで切り揃えた黒髪と切れ長の目。


「香織!?」


 思わず裏返った声が出て立ち上がる。何でこいつがここにいるんだ。


「昌平から涼太がここでバイトしてるって聞いて、様子見てみたいと思って来ちゃった」香織があっさりと言って微笑んだ。


「いや、来ちゃったって……。何もわざわざ今日来なくていいだろ」


「あ、今日がクリスマスだってちゃんとわかってるんだ? 他の男と会ってたら彼氏がヤキモチ焼くんじゃないかって?」


「そういうこと心配してんじゃなくて……」


「大丈夫、彼氏とはちゃんと別れたから。だから余計に涼太に会いたくなったんだ」


 さらりとそんなことを言い、両手を背中に回してこちらを見上げる。男心を熟知した台詞と仕草にまたしても心が揺り動かされる。


「あのぉ……もしかして涼ちゃんの知り合いですか?」


 喜美がおずおずと尋ねてきた。香織が喜美の方に視線を向ける。


「はい。涼太の元カノの高野香織です。涼太とは1年くらい前に別れちゃったんですけど、こないだ街で偶然会って、より戻そうって話してたとこなんです」


 香織がごく自然な口調で関係をぶちまける。っていうか最後の一言は誤解するだろ。俺が喜美の方を見ると、喜美が珍しく顔を強張らせていた。


「あー……そうですかぁ。今日クリスマスですもんねぇ。そりゃ好きな人と一緒にいたいですよねぇ。あたしったら全然気ぃ利かなくて……」


 引き攣った笑顔で言い、後頭部を擦ってあははと渇いた笑いを上げる。俺は急いで弁解しようとしたが、それより早く喜美が俺の方を見た。


「涼ちゃんごめんね、せっかくのクリスマスなのにバイト入れちゃって。今日はもういいから上がって」


 手短に言い、俺に背を向けて厨房に戻ろうとする。俺は慌てて呼び止めた。


「いやちょっと待てよ。俺こいつとは何もないんだって……」


「気ぃ遣わなくていいよ。ももうなしにしていいから」


「いや、なしって……」


「付き合ってくれてありがとう。あたしは夜の仕込みするから、2人で楽しんできてね」


 一度も振り返らずに言い、喜美はそのまま厨房に戻ってしまった。厨房とカウンターを仕切るカーテンが閉められ、中の様子が全く見えなくなる。


「今の人店長さん? なんか思ったより若いね。最初アルバイトかと思った」香織が厨房を見ながら意外そうに言った。


「でもいい人だね。バイト、早上がりにしてくれたんでしょ? せっかくだしこれからどっか行く?」


 香織が悪びれもせずに言って俺のシャツの袖を引っ張ってくる。男心をくすぐる仕草。だが、俺はもう少しも心を動かされなかった。


「あのさ……香織、この際だからはっきり言っとくけど」


 俺は振り返りながら言った。香織が不思議そうに小首を傾げる。


「俺、お前とはもう付き合えない。だからそんな風に誘っても無駄だ」


 香織が目を丸くして俺を見つめてくる。断られるとは思っていなかった顔だ。


「……何で? あたしのこと嫌いじゃないって言ったよね?」


「嫌いじゃない。でもだからって好きでもない」


「ふーん……? あたし達似た者同士だし、相性いいと思うんだけど」


「相性よくたって付き合えるとは限らないだろ。俺、もうお前のこと女として見てないんだよ」


「それ、他に好きな人がいるってこと?」


 俺は咄嗟に返事ができなかった。それを見て香織が何かを察したように笑う。


「あぁ……そういうことね。ふーん、涼太ってあぁいう人がタイプだったんだ」


「どういう意味だ?」


「別に? 1年も会わなかったらやっぱり変わるんだなーと思って。

 でも本当にいいの? あたし、自分で言うのもなんだけど結構モテるんだよ? 勿体ないことしたって後悔しない?」


「あぁ、わかってるよ。でも後悔はしない。前の時だって、人に自慢するためにお前と付き合ったわけじゃないしな」


「あぁそうだね。そういう女を飾りにしないとこも好きだったんだけど、振られたんならしょうがないか」


 香織があっさりと言って笑う。悔しがるような様子はなく、どこまで本気だったんだろうと疑わしくなる。でも実際は、本心を知られたくなくて強がっているだけなのかもしれない。――俺がそうだったように。


「じゃ、またね、涼太。バイト頑張ってね」


 香織が手を振りながら店を出て行く。その様子には何の未練もないように見えたが、外に出て引き戸を閉める直前、片手で目尻を拭ったのが目に入った。思わず声をかけようとしたところで拒絶するように引き戸が閉められる。そのまま走り去るような足音が聞こえたが、すぐにそれも聞こえなくなった。

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