9−10

 その後、俺が皿洗いを済ませたタイミングでチーンという音がした。テーブルにいた喜美が弾かれたように立ち上がり、小走りでオーブンの前に行ってミトンをはめる。蓋を開けると内側からもわっという熱気が漏れ出し、同時にふっくら焼き上がったキッシュが現れた。


「よしよし! いい感じに焼き上がったね! どうよ涼ちゃんこのプロ顔負けの仕上がり!?」


 喜美が自慢げに言ってトレーごと俺にキッシュを見せつけてくる。アパレイユにはこんがりと焼き色が付き、全体にまぶされたグリュイエールチーズもいい具合に溶けている。焼きたての香ばしい匂いが鼻をくすぐり、しばらく落ち着いていた胃が再び俺の腹を蹴り始める。


「うん……正直めちゃくちゃ美味そうだ」俺は素直に認めた。「これ、すぐ食えんのか?」


「もちろん! ……と言いたいとこだけどもうちょっとだけ待ってて! 5分くらい冷まして粗熱取るから!」


「それもやっぱ意味があんのか?」


「うん! 熱いままだと型から外す時に崩れやすいんだ! せっかく綺麗に焼けたのに最後の最後で崩れたら嫌でしょ?」


「そりゃそうだな。じゃあちょっと待つか」


「うん! いやーそれにしてもあたしって天才だね! あっという間にお菓子作りマスターしちゃうんだもん! これは将来パティシエとして開業できちゃうかも!?」


 喜美がさも嬉しそうに言って胸を張る。さっきまでのしおらしい様子はなく、いつもの調子を取り戻したことに俺は少し安堵した。


 


 俺がカウンターに戻り、少しボーっとしている間に粗熱が取れたらしい。喜美がお盆を持って厨房から出てくると、1ピースに切り分けたキッシュを俺の前に差し出した。


「はい! 涼ちゃんお待ちどおさま! 『聖なる夜に、恋人たちのキッシュ』です!」


 例によって恥ずかしいメニューの名前を口にする。そのネーミングセンスいい加減どうにかならないのかと思いながらも俺は目の前のキッシュに視線を落とした。アパレイユにはムラなく火が通っており、黄色の断面にほうれん草とベーコンが鮮やかに色どりを添えている。普通のケーキはふわふわして食った気がしないが、これならボリュームもあって胃袋を満足させてくれそうだ。


 俺はフォークを手に取ると、そっとキッシュの表面に切り込みを入れた。さく、という音と共に焦げ目が割れ、フォークがすっと下まで下りる。一口サイズに切って持ち上げると溶けたグリュイエールチーズがピザのように糸を引いた。俺はチーズを滴らせたままキッシュにかぶりついた。


 口に入れた瞬間、とろっとしたチーズが舌の上を滑っていき、次いでまろやかな風味が口いっぱいに広がった。これがスイスの味なのだろう。普段食っているスライスチーズとは全く違う旨味とコクがある。アパレイユはしっとりとして柔らかく、生クリームのほんのりとした甘さが口の中を優しく満たしていく。ベーコンからは噛むたびにじゅわっと肉汁があふれ、玉ねぎからはじんわりと甘みが滲み、ほうれん草はシャキシャキとした食感を残し、全ての食材が混ざり合って絶妙な風味を生み出している。

 だが何よりも印象的だったのはパイ生地のブリゼで、サクサクとした食感が口だけなく耳にも心地よく、それでいてしっとりとした風味もあって高級なクッキーを味わっているようだった。


 俺は夢中になってキッシュを掻っ込んだ。1週間前に行ったカフェでも同じものを食ったが、その時よりも美味く思えるのはどうしてだろう。焼きたてだからか、調理段階を逐一見てきたからか、それともやはり喜美の腕が一級品なのか。


「ふふん、その感じだと大成功みたいだね?」


 急に得意げな声がして俺は顔を上げた。喜美が不敵な笑みを浮かべて俺の横に立っている。


「どうよ涼ちゃん!? 喜美ちゃんの特性手作りキッシュのお味は!? 見た目だけじゃなくて味もさいっこうでしょ!?」


 喜美が目を輝かせて身を乗り出してくる。いつもなら渋々認めるところだが、今日の俺はそんな気になれなかった。


「あぁ、他の店で食ったやつよりよっぽど美味い。お前マジで才能あるかもな」


 褒めてやったのに喜美はかえってきょとんとした顔になった。まじまじと俺を見つめてくる。


「……涼ちゃん、今日やっぱなんか変だね。ホントに熱ないの?」


「ねぇよ。何でそんな疑うんだよ」


「だって妙に素直じゃん。いつもはそんな風に褒めたりしないのに」


「美味いもんを美味いって言って悪いのかよ」


「そうじゃないけど……そっけないのに慣れてるから、調子狂っちゃってさ」


 喜美が困惑した顔で耳の後ろを搔く。確かに今日の俺は俺らしくない。でもそれはお互い様ではないだろうか。


「調子狂うのはこっちだよ。お前、いつもみたいに変な絡みしてこないだろ」


「変な絡み?」


「その……恋愛っぽい絡み。やられてる時はうざかったけど、なかったらなかったで調子狂うんだよ」


「あー、あれねぇ。いやーよく考えたらあたし、あんなふざけたことばっか言ってるから彼氏の1人もできないのかと思ってさ」喜美が苦笑した。

「いくら面白くたって女っ気がなかったら恋愛対象にはならないし。だからちょっと大人しくしてみたんだけど、今さら遅いかな?」


 喜美が寂しげに笑い、小首を傾げて俺を見つめてくる。

 それを見て俺は胸がかきむしられそうになった。駄目だ、これ以上引き延ばしにはできない。俺はついに決心すると、フォークを皿の上に置いた。背筋を伸ばして横に立つ喜美に向き直る。


「あの……例の件なんだけど……」

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