9−9

「にしてもお前、よく1週間でこんだけ覚えられたな。菓子あんまり作ったことなかったんだろ?」喜美がオーブンのタイマーをセットするのを見ながら俺は言った。


「うん。だから最初は何回も失敗したよ。ブリゼがパサパサになったり、アパレイユが零れちゃったりしてさ。クリスマスに間に合わせるの無理かなとも思ったんだけど、こういうのって時期が大事だから。頑張って練習したんだ!」


 頑張ったという一言で片づけてはいるが、1週間でこれだけスムーズに作れるようになった以上、実際には相当努力してきたんだろう。普通に食堂を営業しながら裏でスイーツの研究までしているなんて、本当に料理に関しては妥協のないやつだ。これも全て、お客さんに喜んでほしいという一心からなんだろうか。


「じゃ、待ってる間に洗い物済ませちゃおっかな。涼ちゃんはそこで座ってていいよ」


 喜美が言い、いそいそとボウルやらまな板やらを流しに運んでいく。

 俺はしばらくそれを眺めていたが、やがて立ち上がると言った。


「いや……洗い物は俺がするから。お前の方こそちょっと休んでろ」


 言いながら鞄を探り、制服の黒いエプロンを取り出して身体に巻きつける。喜美は心底びっくりした顔で一連の動作を見つめていた。


「……いいの? 夜だって普通に働いてもらうのに……」


「別にいいよ。どうせ今もバイト中だしな」


「でも……あたしがお願いしたのはキッシュの試食だけなんだけど」


「焼けるまで40分かかるんだろ? 黙って待ってても暇だし、動いてる方がいい」


「でも……」


「あぁもううるせぇな。いいからそこで座ってろよ」


 冷淡に言い、顎でテーブル席の方をしゃくる。そのまま厨房に入ると、喜美を押しのけるようにして流し台に立った。無言で食器やら道具やらを洗っていく。


「……ありがと、涼ちゃん、今日は優しいんだね」


 後ろから喜美の声がしたので俺はちらりと振り返った。喜美が目を細めて俺を見つめている。1週間前と同じ、泣きそうな顔だ。俺は居たたまれなくなって顔を前に戻した。


「……別に。今張り切り過ぎて、営業中に倒れられても迷惑なだけだ」


「そっか。でも嬉しいよ。最初聞いた時は熱あるのかと思ったけど」


「……失礼な奴だな。んなこと言うんだったら全部ほったらかして帰るぞ」


「あぁごめんごめん! ホントにびっくりしたからつい!」


 喜美が慌てて顔の前で手を合わせる。俺はため息をついた。


「じゃ、お言葉に甘えてちょっと休ませてもらおうかな。へへ、でも嬉しいな。これだけでも新作チャレンジした甲斐があったかも」


 喜美が照れくさそうに笑い、小走りで厨房を出て行ってテーブル席にぴょこんと腰かけた。でもやっぱり落ち着かないのか、所在なげに店内をきょろきょろ見回し、そのたびに赤と緑のリボンが揺れた。


 俺はその様子を見ながらさっきの実演調理を思い出していた。普段は調理の間に俺への面倒くさい絡みを挟んでくるのに、今日は一切それがなかった。俺に彼女がいたことを知ってからずっとそうだ。明るいのはそのままだが、恋愛を意識したやり取りをすることはなくなっている。


(……あいつも俺に気ぃ遣ってんのかもな。俺が今も香織と何かあるんじゃないかって……)


 あれ以来香織から連絡は来ていない。あいつのことだからたぶん催促もしてこないだろう。このままうやむやにすることもできなくはないが、それはさすがに気が咎める。


(……どっちにしても、早く結論出さないとな)


 俺は気が重くなるのを感じながら、皿の上でおざなりにスポンジを動かした。

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