9−5

 翌日、俺は夕方からのバイトでたまご食堂に行ったが、正直心ここに在らずの状態が続いていた。原因はもちろん香織のことだ。

 あの後すぐ香織とは解散したが、家に帰ってからもあいつの言葉や仕草が頭から離れなかった。だから大学の講義もろくに耳に入らず、バイト中も注文を3回も間違えてしまった。これではいけないと気を引き締めようとするが、どうしても意識がそっちに行ってしまう。


「なんか今日の涼ちゃん変だね、何かあった?」


 厨房で食材の下処理をしながら喜美が尋ねてきた。ラッシュを終えた店内では客が出払っており、いるのは俺と喜美だけだ。


「別に何もねぇよ。ちょっとぼーっとしてただけだ」俺は洗い物をしながら答えた。


「本当に? でもいつもは注文何回も間違えたりしないじゃん」


「うっかりしてたんだよ。慣れてきたから気が緩んだんだ」


「えー、そうかなぁ? あたし、涼ちゃんってやる気も愛想もないし、お世辞にも接客に向いてるとは言えないけど、それでも決められた仕事はちゃんとやる人だって思ってたよ」


「それ褒めてんのか? けなしてんのか?」


「もちろん褒めてるんだよ! だからほら、ご褒美に喜美ちゃんの熱々のキッスを……」


「そういう絡みはいらん」


 俺はため息をついて水道の水を止めた。告白の返事待ちだというのに喜美の俺への態度は変わらず、会うたびに漫才じみたやり取りを続けている。やっぱりあれは冗談だったんじゃないかと時々思うが、そうでないことは3か月前に実証済みだ。


「でも不思議だよねぇ。涼ちゃんがそんなにぼーっとするなんてさ。何か悩みでもあるの?」


 喜美が何気ない口調で尋ねてくる。俺は一瞬どきりとしたが、すぐに動揺を気取られないよう仏頂面を作った。


「あると言えばあるけど……わざわざ言うほどのことじゃないから」


「そう? でもよく言うじゃん? 悩みは人に話した方がすっきりするって! だから話してごらん? お姉さんが聞いてあげるからさ!」


「お前にだけは言わない。つーかお姉さんなんてキャラじゃないだろ」


「やだなー、涼ちゃんってば感じない? この包容力あふれる大人の女の魅力を?」


「まったく」


「あれー、おかしいなぁ。何がいけないんだろ? やっぱ身長のせいかなぁ。毎日牛乳2リットル飲んだらちょっとは変わるかな?」


 喜美は真剣な顔で悩み始める。身長以前にそのふざけた言動を何とかしろと言いたい。


「あぁそうだ、それより涼ちゃん、ちょっと折り入って相談があるんだけど」


「何だよ改まって」


「いや実はさ、新メニューを考えてるんだけど、何かいい案ないかなと思って」


「新メニュー? こないだオムレツ追加したばっかだろ。その前もエッグベネディクト増やしたし、そんないくつもいるのか?」


「そうなんだけどさー、新しいものって最初は珍しいけどすぐ慣れちゃうじゃん? お客さんに選ばれるためには常に新鮮さが必要なんだよ!」


「はぁ……。でも俺料理詳しくないし、全然思いつかないんだけど」


「料理じゃなくてもいいよ。スイーツとかでもいいし、何かない?」


「んなこと言われても……あ」


「なになに、どうしたの!?」


 喜美が弾かれたように身を乗り出してくる。顔をくっつけんばかりに近づけられたので俺は皿を持ったまのけぞった。単に料理人としての好奇心が強いだけかも知れないが、今の俺からしたら心臓に悪いので止めてほしい。


「その……昨日友達とカフェに行ったんだけど、そこで変わったケーキがあったんだよ。それに確か卵使ってたなって思って」俺はそれとなく喜美から距離を取りながら言った。


「へぇ、どんなケーキ?」


「パイの中にベーコンとチーズが入ってるんだ。珍しいから頼んだんだけど、あんまり甘くなくて、ケーキって言うよりおかずみたいだったな」


「あ、もしかしてキッシュのことかな?」


「あぁ、確かそんな名前だったな。あれもケーキなんだよな?」


「うん! キッシュはフランスのアルザス=ロレーヌ地方っていうところで生まれた郷土料理で、パイ生地に溶き卵と生クリームを流して焼き上げる料理なんだ! 甘い物が苦手な人でも食べやすいし、ボリュームあるから男性にもお勧めなんだよ!」


 喜美がここぞとばかりに講釈を垂れる。スイーツについても知識は豊富らしい。


「確かに普通のケーキより食った感じあったな。あれ、食堂でも出せるもんなのか?」


「どうだろう。一から作ると時間かかっちゃうけど、昼間作っといて夜に出すのはありかも。ケーキだったらクリスマスっぽさもあるし、期間限定メニューってことでいけそう!」


 喜美は早くも乗り気になっている。ほんの思いつきだったが、意外と悪くない案だったようだ。

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