8−9

 それから20分ほどして俺と姉ちゃんはオムレツを食べ終えた。姉ちゃんもオムレツには満足したようで、皿にはケチャップすら残っていない。自分のスマホに何やら打ち込んでいるのは喜美のレシピをまとめているのだろう。だったら俺にメモさせる必要なかったじゃないかと俺は文句を言いたくなった。


「……じゃ、オムレツも食い終わったことだし、そろそろ帰ろうぜ」


 俺はお冷やを飲みながら平静を装って言った。このまま店を出られれば俺と喜美の奇妙な関係を姉ちゃんに勘付かれずに済む。そのまま下宿先に戻ってしまえば母さんから質問を浴びせかけられることもない。


 だが、俺が帰り支度を始めても姉ちゃんは動こうとしない。顎に手を当て、喜美が引っ込んだ厨房を難しい顔で見つめている。


「何だよ、まだ食い足りねぇのか? あんまり食うと太るぞ」


「違うわよ!」姉ちゃんがかっと目尻を吊り上げた。「そうじゃなくて……あの子のことが気になるの」


「気になるって、何が?」


「あんたとのこと。飲食でバイトするの嫌がってたあんたを働かせるくらいだから、てっきりすっごい美人かと思ってたけどかかなりイメージと違ったし……。何があんたをその気にさせたのかなと思って」


「……別に大した理由なんてない。たまたまタイミングがよかっただけだ」


「そう? でもなーんかあんた達怪しいんだけどねぇ」


 姉ちゃんが腕と足を組み、疑わしげな視線を俺に向けてくる。俺はその視線に気づかない振りをしながら上着を着て立ち上がろうとした。


「あ、ちょっと待って涼ちゃん!」


 俺が帰りかけたのを見たらしい喜美がいそいそと厨房から出てきた。俺は嫌な予感がしつつも立ち上がった。


「何だよ、今月のシフトならもうもらってるぞ」


「そうじゃなくて……その、そろそろあのこと考えてくれた?」喜美が小声で尋ねた。


「あのこと?」


「ほら……9月の終わりにあたしが言ったこと。あれ、まだ返事もらってないよね……?」


 喜美がほんのり顔を赤らめながら上目遣いに俺を見上げてくる。俺はぎくりとし、慌てて喜美をレジの方に引っ張って言った。幸い、姉ちゃんに聞かれた様子はない。


「お前な……何でそれ今聞くんだよ!? バイトの時でいいだろ!」


「そうだけど……バイトの時はどうしてもあたしも店長モードになっちゃうから。なかなか訊ける雰囲気じゃないんだよねぇ」


「だからって今じゃなくていいだろ……。姉ちゃんに聞かれたらどうすんだよ」


「あれ、涼ちゃん、お姉さんにあたしのこと話してないの?」


「昨日話したけど、それも成り行きでだ。自分から話題は振ってない」


「じゃあ、あたしが告白したことも?」


「うん。知らない。だからここは黙って……」


 俺が皆まで言う間もなく、喜美が両手に顔を埋めてわっと泣き出した。姉ちゃんが弾かれたように顔を上げる。


「うう……。ひどいよ涼ちゃん! あたしはこんなに涼ちゃんのことが好きなのに……涼ちゃんはあたしのことを隠そうとするんだね!? 告白の返事だってずーっとはぐらかして……涼ちゃんはあたしのことなんかどうでもいいんだ!」


 喜美は非難するようにまくし立てながらわぁわぁと泣き声を上げる。最悪な形で真実をぶちまけられて俺は血の気が引きそうになった。


「ちょ、お前、止めろって……! そんなことしたら姉ちゃんが……」


「りょー、おー、たー?」


 まるで地獄の底から聞こえるようなドスの効いた声が店内に響き、俺はぎょっとして顔を上げた。椅子から立ち上がった姉ちゃんが物凄い形相で俺を睨みつけている。金剛力士像だってここまで恐ろしい顔はしていないだろう。


「涼太、あんたこの子に何したわけ!?」姉ちゃんがつかつかと俺に詰め寄ってきた。「女の子泣かせるなんてサイテーね! この外道! クズ! 女の敵!」


「いや言い過ぎだろ。俺は何も……」


「言い訳するなぁ!」


 姉ちゃんの平手打ちが俺の頭を直撃する。俺はふらついて背中からレジ台によりかかった。


「お姉さん、聞いてくださいよ!」喜美がここぞとばかりに喋り出した。「あたし1か月くらい前に涼ちゃんに告白したんですけど、未だに返事もらえてないんです! 少しでもチャンス増やしたいと思ってバイトにも誘ったのに、涼ちゃんってば相変わらず素っ気なくて! あたしが毎日どんな気持ちでいるか全然気づいてくれないんです!」


「何それ! サイテーね! ちょっと涼太、本当なの!?」


 姉ちゃんが腰に手を当てて俺を睨みつけてくる。こうまでバラされてはもはや言い逃れのしようがなく、俺はまだズキズキする頭を押さえながら言った。


「……うん、マジだ。でも、俺だって考えてないわけじゃないんだよ。ただ結論が出ないだけで……」


「何をそんなに考える必要があるのよ!? 好きか嫌いか答えるだけでしょ!?」


「だからそれがわかんないんだって。今までそういう目で見たことなかったから……」


「でも告白されたのって1か月以上前でしょ!? 1か月もそういう目で見てまだわかんないの!?」


 俺は口を噤んだ。どうなのだろう。わからないというより、ただ結論を出すのを先送りにしてるだけの気もする。でも、どうしてきっぱりと断ることができないのか、自分でもよくわからなかった。


「……あのねぇ涼太、女の子にとって1か月ってシビアなのよ?」姉ちゃんが口調を和らげて言った。「特に喜美さんは28歳でしょ? 結婚だって意識する年だし、相手見つけなきゃって焦っててもおかしくない。なのにあんたが返事保留しているせいで、喜美さんは他の相手と付き合えないのよ? そのこと考えたことある?」


「それは……」


 正直なところなかった。喜美の見た目が幼すぎるせいで、ついアラサーだということを忘れそうになる。でも言われてみれば、喜美だって女なのだ。姉ちゃんの言う通り、結婚を意識して焦りを感じていてもおかしくない。なのに喜美は、結婚できそうな相手を探すこともなく、大学生に過ぎない俺にいつまでも期待を懸けてくれている。そのことに気づくと、俺は途端に申し訳なさがこみ上げてきた。


「別に結婚を意識して付き合えとは言わないけどさ、少なくとも返事は早くしてあげるべきじゃない? あんたに喜美さんの時間奪う権利はないでしょ?」


「……そうだな」


 俺は頷くと、レジ台から身体を起こして喜美の方に向き直った。喜美は両手から顔を上げて俺を見つめている。涙は出ていないから嘘泣きだったのだろう。でも俺はそれを責める気にはなれなかった。


「……お前の気持ちも知らずに待たせてごめん。でも、今はまだ気持ちの整理がついてないから、もうちょっとだけ待ってほしい。年内には……返事するようにするから……」


「うん……わかった。あたしこそごめんね、お姉さんをだしみたいに使っちゃって」


 喜美が軽く笑って言う。その弱々しい笑みがかえって痛ましかった。それが喜美の素顔だとわかったからだ。


「……次のバイト、明後日だっけ。ちゃんと遅れないように来るから」


「うん、待ってるね」


 喜美は頷くと、レジ台の方へ駆けて行ってレジを打ち始めた。俺も伝票をトレーに乗せて財布を取り出す。お互い何も言わずにお金のやり取りを済ませると、そのまま簡単に挨拶をして別れた。

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