8−8
「というわけで、あたしはトントンせずにオムレツを作っていきます!」喜美が意気込んで言った。「まずフライパンを奥に傾けて、卵の先端を弱火で5秒くらい焼きます! そうするとフライパンのカーブの形に卵が固まって、自然とオムレツの形になるんです! で、さらに卵をひっくり返すんですけど、この時フライパンを中華鍋みたいに振るんじゃなくて、ゴムベラを使って奥から手前に倒すようにするのがポイントです!」
「右手じゃなくて左手で巻いていくイメージだったな」俺は言った。「フライパン持ち上げた時の遠心力を使うんだっけ」
「そうそう! よく覚えてるね涼ちゃん! これは免許皆伝の日も近いかな?」
「何の免許だよ」
「料理人見習い3級! ついでにあたしのお婿さん1級……」
「ああぁわかったから早くひっくり返せよ! 完成前に焦らすな!」
「はいはいわかったよ。……ほいっと!」
掛け声と共に喜美がオムレツをひっくり返す。まったく油断も隙もあったもんじゃない。
「これで繋ぎ目が下になったから軽く焼いて、固まったら繋ぎ目を上に見せるためにもう1回ひっくり返すよ! 後はお皿をフライパンに乗せて、フライパンをひっくり返してオムレツをお皿に移したら完成! はい、涼ちゃん、ここですかさず料理の名前!」
「知らねぇよ。休みの日までお前のノリに付き合わせるな」
「もー、相変わらずいけずだなぁ涼ちゃんは。じゃ、気を取り直して……『愛情巻き巻き・プレーンオムレツの出来上がりー!』
喜美が高らかに言ってオムレツの乗った皿を見せつけてくる。綺麗な黄色をしたオムレツの表面には裂け目一つなく、艶やかな見た目は思わず手で触りたくなってしまうほどだ。だからこそそれを台無しにする恥ずかしい料理名が残念でならない。
「後はケチャップをかけるだけだね! 何が書いてほしいメッセージとかある? 『涼ちゃんへ愛をこめて』とか、『未来のおねえさんへ、これからもよろしくお願いします』とか……」
「いらん。つーかそんな長いメッセージ書けないだろ。オムレツ真っ赤になるぞ」
「あー、それは困るねぇ。スプラッター映画じゃないんだから。じゃ、シンプルにハートとかにしときますか!」
いや全然シンプルじゃないだろ。俺は突っ込もうとしたが、いい加減疲れたので放っておくことにした。
「はい! お待ちどおさま! 『愛情巻き巻き・プレーンオムレツ』です!」
俺と姉ちゃんはテーブル席に戻り、厨房から出てきた喜美が俺達の前にオムレツの乗った皿を置く。オムレツの奥には少量のサラダが添えられていて実に色鮮やかだ。
「じゃ、後はごゆっくり! あたしは奥で洗い物してますんで、何か用があったら呼んでくださいね! 用がなくても呼んでもらってもいいですよ! なんならずっとここにいて、家での涼ちゃんの話とか聞かせてもらっても……」
「いいからさっさとと戻れ」
俺は犬を追い払うようにしっしと手を払った。喜美が唇を尖らせて厨房に戻っていく。やっとうるさいのがいなくなったと俺は安堵の息をついた。
「へぇ……オムレツってこんなつるつるにできるんだね。何かちょっとお菓子みたいじゃない?」
ようやく息を吹き返した姉ちゃんがしげしげと皿を眺めて言った。鮮やかな黄色の表面は、デパートで売っている洋菓子のように見えなくもない。
「確かにな。俺も作るとこ見てなかったらケーキと勘違いしたかもしれない」
「だよねぇ。こんな綺麗なんだからスプーン入れるのも気が引けるわ」
「気持ちはわかるけど、食わないのは勿体ないぞ。見た目だけじゃなくて味も絶品だからな」
「へぇ、あんたそんなに何回もあの子の料理食べてるんだ?」
「……いや、別に」
墓穴を掘ったことに気づいて俺は黙り込んだ。気まずさを払うようにスプーンを握ってオムレツに切れ目を入れる。スプーンが表面に触れるとオムレツはプリンのようにぷるっと震え、切られるのを嫌がっているみたいに思えた。俺は少しだけ罪悪感を抱きながらオムレツを掬って口に運んだ。
口に入れた瞬間、薄い膜を張ったオムレツの表面が舌に心地よく触れ、まさしくプリンのようなつるりとした感触が舌の上を転がっていった。ざらついた部分や固さが残る部分はどこにもなく、全てが柔らかい絹のような舌触りで、いつまでも舌の上で転がしていたくなるくらいだった。
舌触りを堪能した後で恐る恐る噛んでみると、膜の中から半熟の卵液が飛び出してきて、滑らかな食感の上にジューシーな味わいを加えていく。すると今度はその味わいが病みつきになって、ゆっくりと噛んでは内側から迸る卵液を堪能することを繰り返す。滑らかさと瑞々しさ、その二つが同居するオムレツの味わいは口内の幸福感を増長させ、脳内にまでそれが波及するように身体中を恍惚さで満たしていく。
「……あんた、ものすごい美味しそうに食べるんだね、オムレツ」
横から聞こえた姉ちゃんの声で俺はようやく我に帰った。いつの間にかオムレツが半分ほどに減っている。夢中で食べていたので全く気づかなかった。
「……いいだろ別に、実際美味いんだから」俺は憮然として言った。
「うん。確かに美味しい。ホテルで出されても違和感ないくらい」姉ちゃんが頷いた。「ただあたしが意外だったのは、あたしがさっきみたいに幸せそうな顔してたこと。あんた、今までそんな顔して食事したことなかったじゃない?」
「……そうだっけ」
「そうだよ! ちょっと高級なお店行って、あたしと母さんがこれ美味しいってはしゃいでても、あんたは1人だけ『まぁ普通だな』とか言ってたじゃない!」
「あれは……その、別に褒めるほどでもないと思ったから」
「その割にあの子の料理はちゃんと褒めるんだね。さっきも絶品とか言ってたし、そんなにあの子の料理が気に入ってるんだ?」
「まぁ……料理はな」
俺は気まずそうに視線を逸らすと、オムレツの続きを食べ始めた。だが、さっきのような幸福感は訪れず、むしろ食べれば食べるほど罪悪感が募っていくのだった。
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