8−2
俺の実家は、下宿先のマンションから電車で1時間ほどかけたところにある。
気軽に行ける距離とはいえ、用がなければ実家に帰ることはまずない。男の一人暮らしというのは何かと心配らしく、母さんも姉ちゃんも帰るたびに俺の暮らしぶりについて事細かに聞いてくるからだ。朝は起きれているか、食事は取れているか、洗濯はできているか等々。ガキじゃないんだからほっといてくれよと思うのだが、性格は遺伝しているのか、2人とも何かと世話を焼きたがって困る。
そんな実家に俺が帰ってきたのは、語学の授業で使う辞典を姉ちゃんから譲ってもらうためだった。本当なら辞典だけもらってすぐに帰るつもりだったのが、姉ちゃんにこう言って引き留められた。
『涼太、ちょうどよかった! あんたあたしの料理食べて帰りなさい!』
聞けば、姉ちゃんは最近になって会社に気になる人ができ、その人と共通の趣味を持つために料理を覚えたいという話だった。姉ちゃんは普段から母さんに家事を頼り切っており、料理の腕はからっきしなのだ。
「ほら涼太、あたしが真心込めて作った出汁巻きよ。心して食べなさい」
俺の向かいに座った姉ちゃんが出汁巻きの皿を押しつけてくる。だが、『出汁巻き』と形容するのが失礼なほどにその見た目はぐちゃちゃだ。
「……もうちょっと見た目何とかならなかったのか? スクランブルエッグにしか見えないんだけど」
「見てるだけのあんたにはわかんないかもしれないけど、出汁巻きって難しいんだからね! 水分多いから上手く巻けないし」姉ちゃんが肩を怒らせた。
「最初から難しいもん作ろうとするから失敗すんだよ。大人しく卵焼きにしときゃよかったのに」
「だって卵焼きって誰でも作れるじゃん。それじゃアピールにならないでしょ」
「あら、そうでもないわよ?」姉ちゃんの隣に座る母さんがのんびりと口を挟んだ。
「卵焼きも結構難しいんだから。あたしも焦がしちゃったしねぇ」
「うん、あたしも母さんが失敗したの見てびっくりした。普段料理してるからちゃちゃっと作れると思ったのに」
「煮物とかならできるんだけど、卵料理はどうも苦手でねぇ……。とにかく火の通りが早いからすぐ焦がしちゃうのよ」
「そっか。やっぱ火加減って大事なんだね。あたしも今度は弱火でやろうかな……」
姉ちゃんがスクランブルエッグもどきの出汁巻きを口に運びながら呟く。俺は卵焼きの焦げを取り除きながら二人の会話を聞いていたが、会話が止んだタイミングで言った。
「あのさ、さっきから弱火の方がいいって話になってるけど、本当は卵焼きも出汁巻きも強火の方がいいんだよ」
姉ちゃんと母さんが箸を止めて俺を見やる。俺は続けた。
「確かに強火だと焦がしやすいけど、半熟の状態で手早く巻けば焦がさずにふっくら仕上がるんだ。逆に弱火だと火が通り過ぎてパサパサになるからよくないんだよ」
「……何それ? 卵強火で焼くなんて聞いたことないけど」姉ちゃんが目を細めた。
「でも実際プロはそうやって作ってるから。あぁそれと、巻く時は手首返すんじゃなくて、フライパン持ってる方の腕ごと動かすようにして巻くんだよ。箸で巻こうとすると力入りすぎて破れるから、右手は添えるだけにした方がいい」
俺は何の気なしにそう言ったのだが、俺を見つめる姉ちゃんと母さんの目が訝しげなことに気づいて箸を止めた。何か変なことを言っただろうか。
「……あんた何でそんなこと知ってんの? 普段料理しないはずでしょ?」
姉ちゃんが胡散臭そうに尋ねてきた。そこで俺はようやく自分の発言の不自然さに気づいた。一連の知識は喜美の実演調理から覚えたものだが、喜美のことを正直に話そうものなら根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。俺は何とかごまかすことにした。
「えっと……俺、今飲食店でバイトしてんだよ。そこで覚えたんだ」
「飲食店でバイト? あんたが?」姉ちゃんが目を丸くした。
「うん。知り合いがやってる店だから気ぃ楽なんだよ」実際はそうでもないが。
「ふーん? でもあんたが飲食店って全然似合わないね。愛想よく接客してるとことか想像つかないし」
「そうよねぇ。お客さんに嫌な思いさせてないといいんだけど」母さんまでそんなことを言う。
「心配しすぎだって。仕事だからちゃんとやってるし。店長にも何も言われてないよ」実際はいつも怒られているが。
「にしてもどういう気まぐれ? 飲食だけは嫌だって前から言ってなかった?」姉ちゃんが尋ねた。
「うん、そもそも料理なんてしたことないしな。今も好きで働いてるわけじゃなくて、向こうから声かけてきたのに乗っかっただけっつーか……」
「そもそも飲食店やってる知り合いなんていたんだ? 大学の先輩とか?」
「いや、違う。たまたま行った店で会っただけ」
「店でたまたま知り合っただけの相手と、バイト誘われるほど仲良くなったの? あんたそんな社交的な性格だっけ?」
「いや、それも違う。俺は避けてたのにあいつが関わってきただけで……」
「全然話が見えないんだけど? あんたとその経営者ってどういう関係なのよ?」
姉ちゃんの質問攻撃は容赦がなく、俺はとうとう黙り込んだ。俺と喜美の関係を穏便に理解してもらうためにはどう説明すればいいのだろう。たまたま行った食堂で知り合って、散々邪険にしたにもかかわらず告白されて、返事を保留したまま今日に至っている。そんな実情を正直に話したら間違いなくグーで殴られる。
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