7−12

「Oh……what the hell」


 声と共に食器が落ちる音がして俺は振り返った。ナイフとフォークを取り落としたヘレンが両手で顔を覆っている。その目からみるみる涙が溢れ出すのを見て俺はぎょっとした。


「え、ちょ……大丈夫ですか!?」


 俺は慌ててエプロンを弄ったが出てくるのは布巾かおしぼりだけで、ティッシュもハンカチも見つからない。俺がおろおろしているとヘレンが嗚咽混じりに言った。


「This Egg Benedict tastes……ジョージ、オナジ」


「え? あ、ジョージが作ったのと同じ味ってことですか?」


「Yes.So I remembered George…….ジョージ、アイタイ」


 ヘレンは両手に顔を埋めてさめざめと泣き始める。どうやらエッグベネディクトを食べたことでジョージがたまらなく恋しくなってしまったらしい。これでは失恋の傷を癒すどころか逆効果だ。


 俺がどうしたものかと途方に暮れていると、不意に引き戸が開く音がした。こんな時に客かよと思いながら俺は入口の方を見た。


「あ、すいません。今ちょっと取り込み中で……」


 客は俺の言葉が聞こえなかったのか、つかつかと店内に入ってくると迷わず俺の方にやって来た。だが俺には声をかけず、泣いているヘレンをじっと見下ろしてから言った。


「ヘレン?」


 その声を聞いた瞬間、ヘレンがぴたりと泣くのを止めた。手を顔から外し、恐る恐る顔を上げる。そして客の姿を見た瞬間、弾かれたように立ち上がって叫んだ。


「Oh……George! My darling!」


「え!?」


 俺は思わず仰け反って叫んだ。ヘレンは迷わずジョージの胸に飛び込み、ジョージもしっかりと彼女を抱き留める。まさかのジョージとの再会。それだけでも十分衝撃的だったが、俺が驚いたのは他にも理由があった。


「……ジョージって日本人かよ」


 その客は三十代くらいの男性だった。黒髪を七三分けにして、顔は丸く平板で、体格は中是中肉という典型的かつ平凡な日本人だ。ブロンドをなびかせた爽やかなイケメンではない。何でこの人がこんな美人と……と俺は少し、いやかなり悔しくなった。


「初めまして。私は小川譲二おがわじょうじと言います」ジョージが俺に向かって言った。

「私はここの近所に住んでいるんですが、この店で最近エッグベネディクトを出すようになったという話を聞いて来たんです。エッグベネディクトを食べれば彼女……ヘレンのことを思い出せると思って……」


「え、でもジョージ……小川さんは、ヘレン……さんと別れたんじゃ?」


「ええ……。5年前のことです。彼女が女優になるためにアメリカに戻ると言い出したことがきっかけでした。私にも料理人の仕事がありましたから、一緒にアメリカに行くことはできず、かといって彼女の夢を邪魔したくはなかった。それで別れることにしたんです」


「でも、本当は別れなくなかった?」


「ええ……。彼女は私には勿体ない人でしたから。単に見た目が美しい人だけではなく、僕の作った料理をそれは美味しそうに食べてくれて……。あんな人にはもう二度と出会えないと思った。だから彼女と別れてからも、ずっと忘れられずにいたんです」


「それでジョ……小川さんは、ヘレンさんとの思い出に浸ろうと、ここにエッグベネディクトを食べに来たんですか?」


「ええ。エッグベネディクトは、私がヘレンのために初めて作った料理だったんです。まだ料理人として半人前だった私の料理を、彼女は何度も美味しいと言ってくれました。それに……エッグベネディクトはヘレンの大好物でしたから、エッグベネディクトがある店に行けば……彼女に、会えるかもしれないと思って……」


 それで実際に再会を果たしたというのか。そんな天文学的確率の奇跡が目の前で起こったことが俺は信じられなかった。


「ふっふっふっ……。どうやらあたしの読み通りだったみたいだね」


 背後から不敵な笑い声がする。俺が振り返ると、両手に腰を当てた喜美が得意げな笑みを浮かべているのが見えた。


「読み通りって……何お前、まさかこの展開を予想してたのか!? エッグベネディクトをメニューに増やしたらジョージが店に来るって!?」俺は驚愕して尋ねた。


「いや、さすがに予想はしてなかったけど、でもそうなったらいいなーとは思ってたよ! あたしの料理が離れ離れになった恋人を結びつけるなんてロマンチックじゃん!」


「いや、そうだけど……。にしても、本当に関係を復活させるなんてなぁ……」


 ジョージがエッグベネディクトの噂を聞きつけて、ヘレンと同じ日の同じ時間帯に来店する。普通ならまず起こりえない展開だが、それが喜美の手によるものだと思うと、なぜか納得できてしまうことが不思議だ。


「本当にありがとうございます。私達が再会できたのはお二人のおかげです」


 ジョージが何度も頭を下げた。この呼び名と目の前の男性がどうしても結びつかない。


「いや……俺は別に何もしてませんよ。ただ料理を運んだだけで」


「でも、あなたは先日、ヘレンの話を親身になって聞いてくださったんでしょう? 彼女が感謝していましたよ。優しくて可愛い男だったって」


「いや、それは、その……」


 俺は照れくさそうに頬を搔いたが、そこでヘレンが俺に近づいてきた。ヘレンは小首を傾げてにっこり笑うと、屈み込んで俺の頬にキスをして言った。


「Thank you boy.I’m glad you listened to me.You are a nice guy,Ryota」


「あ……え、え?」


 俺は頬に手を当ててうろたえた。キスをされた部分が熱く火照り、顔全体が真っ赤になっていく。ヘレンはそんな俺を見てにっこりすると、席に座って再びエッグベネディクトを食べ始めた。ジョージは当然のようにその向かいに腰掛けた。


「ほらほら涼ちゃん、幸せな2人を邪魔しちゃいけないよ! 早く仕事に戻る戻る!」


 呆然と立ち尽くす俺の腕を喜美が引っ張って厨房へと連れ戻す。腕を握る力が強いのは気のせいではないはずだ。

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