7−11
その日も時刻は22時を回っていて、店内に客の姿はなく閑散としていた。俺はくたくたになった身体を引き摺りながらテーブルの拭き掃除をしていたのだが、そこで入口の引き戸が開く音がした。どうせまた居酒屋を梯子しているサラリーマンでも来たんだろう。俺は気のない顔で入口を見たが、そこに立っている人物の姿を目にした途端思わず背筋を伸ばした。
「あ! ヘレン……さん!」
鍔の広い帽子にサングラス、肩掛けにしたジャケットとハイヒール、そして輝くようなブロンドの長い髪。質素な食堂には似つかわしくないそのセレブな装いは紛れもなくヘレンのものだ。今日は青いノースリーブに白いパンツ姿だったが、そのコーディネートは相変わらずファッション雑誌のように洗練されている。
「Hi,boy.Do you have an Egg Benedict today?」ヘレンがサングラスを外しながら尋ねた。
「エッグベネディクトですよね? もちろん用意してますよ! オフコース!」
俺は咄嗟に親指を立てたが、すぐに恥ずかしくなって慌てて指を引っ込めた。これじゃあいつと同レベルじゃないか。
「Wow,I’m pleased to hear that! You guys are really kind!」
ヘレンが両手を合わせてはち切れんばかりの笑みを浮かべる。その笑顔を見ていると、俺は自分が失態を演じたことなんてすぐにどうでもよくなってしまった。
「……とりあえず席に案内します。すぐお冷持っていきますんで」
俺はヘレンから顔を背けながら言った。本当はもっと彼女の顔を眺めていたかったのだが、自分が赤くなっていることを悟られたくなかったのだ。
その時、厨房の方から視線を感じて俺は顔を向けた。喜美が唇を尖らせて俺に物言いたげな視線を向けている。『またよその女にデレデレして……』とでも言いたいのだろう。でも構うもんか。俺はお前の彼氏でも何でもないんだからな。
俺は喜美の視線を無視すると、ヘレンを前と同じ席へと案内した。
お冷と一緒にメニューも渡したが、ヘレンはメニューを見もせずにエッグベネディクトだけを注文した。ジョージとの思い出の前に他の料理は不要、ということだ。
俺はできれば今回もヘレンの話し相手になりたかったのだが、喜美に断固反対された。
「お金もらいながらお姉さんとお喋りしようなんて、そんな虫のいいこと何回も認めるわけにはいかないんだからね!」
そう言われるとぐうの音も出ず、俺は渋々洗い物を再開した。その間に喜美は目にも止まらぬ速さでエッグベネディクトを作り、たちまちベーコンの香ばしい匂いが厨房に漂ってきた。1日の労働を終えて空っぽになった俺の胃袋がまたしても活発に動き出す。
「マフィンの上に具材を乗せて……はい、完成! ほら涼ちゃん、お姉さんに出してきてよ。ちゃんとメニューの正式名称も言うんだよ! 愛の思い出……」
「……普通にエッグベネディクトだけでいいだろ。何でいちいちそんな恥ずかしいこと言わなきゃいけないんだ」
「もー、メニューの名前も料理のうちなんだよ!? まずは名前から入らないと!」
「はぁ……面倒くせぇな。そもそも通じるのかわかんねぇのに……」
俺は文句を言いながらもエッグベネディクトを乗せてヘレンのテーブルへと運んだ。作った本人はアレだが、出来立てのエッグベネディクトはやはり見るからに美味そうで、俺は腹の虫を抑えるのに必死だった。
「あ、お待たせしました。えーと、ラブ・メモリー・エッグベネディクト……」
言いながら俺はものすごく恥ずかしくなってきた。何だよラブメモリーって。20歳の男が口にしていい台詞じゃないだろ。だが、俺の羞恥心など気にした様子もなくヘレンは顔を輝かせた。
「Wow,It looks very delicious! It’s like a dream to be able to eat Eggs Benedict in Japan!」
ヘレンが目をきらきらさせてエッグベネディクトを見つめている。何だかわからないが喜んでくれているらしい。
「味も保障しますよ。あいつ料理の腕だけはいいんで。シー、イズ、プロフェッショナル」
「Certainly,the omelet rice last time was also very delicious.I’m looking forward to eating this!」
ヘレンがさも嬉しそうに言って早速ナイフとフォークを手に取る。俺はできれば彼女がエッグベネディクトを堪能する様子を見守っていたかったのだが、例によって厨房から視線を感じたので渋々テーブルを後にしようとした。
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