7−9

「はい、じゃあ卵を冷やしてる間に今度はソースを作ります! エッグベネディクトに欠かせないのが何と言ってもこのオランデーズソース!」


「フランダースソース?」教会で横たわる少年と犬の姿を思い浮かべる。


「違う違う、オランデーズソース! フランス発祥のソースで、バターと卵黄を溶かして、そこにレモン果汁と塩で味つけしたものなんだ! バターの風味とレモンの酸味がクリーミーなソースと絡み合って美味しいんだよ!」


 確かに聞くだけで美味そうだ。俺は興味を惹かれて身を乗り出した。


「まずは溶かしバターを作るね! 溶かすのは湯銭でもレンジでもいいけど、今回はレンジを使うよ! 600Wだと30秒から40秒くらいかな。あんまりやり過ぎると風味が飛んじゃうから注意してね!」


 喜美が冷蔵庫から取り出したバターをレンジに入れてボタンを押す。間もなくチーンという音がして、喜美が扉を開けると溶けたバターが登場した。


「バターを取り出したら混ぜて、固体がなくなれば溶かしバターは完成! 次は卵ね! 別のボウルに卵黄を入れて、軽く混ぜたらもう1回お湯を沸騰させるよ! 鍋の上にボウルを置いて、その上で卵黄をかき混ぜてソースを作るんだ!」


 再び鍋を火にかけている間に喜美がボウルに卵黄を割り入れる。煮立った鍋の上にボウルをセットすると喜美はゆっくりと中身を混ぜ始めた。


「あんまり熱いと卵に火が通っちゃうから、お湯の温度は60℃から70℃くらいにキープしてね! で、温めながら卵黄を混ぜるんだけど、混ぜてるうちにだんだん白っぽくなってもったりしてくるんだ。その状態になったら火から下ろして、そこで溶かしバターを入れてまた混ぜるよ! この時一気に入れるんじゃなくて、3、4回くらいに分けて入れてね!」


 説明しているうちに卵黄の色が変わってきたので、喜美はボウルを取り出してバターを注いだ。バターを入れては混ぜ、混ぜては入れをひたすら繰り返す。


「バターを全部入れたら、次はレモン果汁と塩を入れるよ! 分量はレモン果汁が小さじ2分の1、塩は一つまみね! 入れたらムラがないようによく混ぜて……味見をしたらソースは完成! 後は具材を切っていくよ!

 まずはイングリッシュマフィンを横にスライスして二等分して、それからベーコンと一緒に焼いていくよ! 焼くのはフライパンでもトースターでもオッケー! 両面に焼き色が付くまでしっかり焼いてね!」


 喜美はガスコンロにフライパンを置き、火をつけてしばらく待った。ちょうどいい温度になったところで油を注ぎ、次いでイングリッシュマフィンとベーコンを投入する。入れた途端にじゅうっと音がして、間もなくベーコンの香ばしい匂いが漂ってくる。これは空きっ腹には辛い……。俺は腹の虫が鳴りそうになるのを必死に抑えた。


「マフィンとベーコンが焼けたらいよいよ盛りつけね! 半分に切ったマフィンを置いて、その上にベーコンを載せて、さらに冷やしておいたポーチドエッグを載せるよ! ポーチドエッグはしっかり水気を切っておいてね!

 で、ポーチドエッグの上にさっき作ったオランデーズソースをかけるよ! お好みで黒コショウをかけてもスパイスが効いて美味しいよ!」


 喜美が皿の上にマフィン、ベーコン、ポーチドエッグを順番に乗せ、その上からとろみのついたオランデーズソースをたっぷりかける。ボリュームのある見た目が思いっきり胃袋を刺激し、俺の腹の虫はそろそろ限界を迎えていた。


「……はい! これで完成! 『愛の思い出・エッグベネディクト』の出来上がりー!」


 喜美がぱちぱちと拍手をする。俺はつられて拍手をしそうになったが、プライドと自制心を振り絞ってそれを堪えた。


「ほら、涼ちゃん、出来立てをどうぞ! 喜美ちゃんのホットな愛情がたーっぷり詰まってるんだから、心して食べてよね?」


 喜美が厨房から店内に出てきて俺の前にエッグベネディクトを置く。皿の奥にはサラダも添えられており実に華やかだ。いつもトースト1枚で朝食を済ませている俺はものすごく贅沢をしてる気分になってきた。


「……これ、ホントに食っていいんだよな?」俺はおずおずと尋ねた。

「俺、今日客のつもりで来てないし、金持ってきてないんだけど」


「大丈夫だよ。試しに作っただけだから、お客さんに出せる味かもわかんないしね」


 喜美はそう言ったが、目の前に置かれている料理はホテルの朝食として出されていても違和感がなく、とても『試しに作った』レベルとは思えなかった。


 俺はごくりと唾を飲み込むと、ナイフとフォークを手にポーチドエッグに切り込みを入れた。途端に中から半熟の黄身がとろっと溢れ出してきて、白いポーチドエッグを鮮やかに染め上げていく。それを見て腹の虫が猛烈に抗議を上げ、さっさとそいつを口に入れろとけしかけてくる。言われなくてもわかってるよと俺は胃袋を宥めながら、マフィンまで突き刺したフォークを口に運んだ。


 口に入れた瞬間、絶妙な半熟具合に仕上がった卵黄が舌の上を滑っていった。次いで卵白が優しく舌に触れるが、その噛み心地はスポンジケーキのように柔らかく、口の中でふっと溶けていくようだった。しっかりと焼かれたベーコンからは噛むたびに肉汁が溢れ出し、香ばしい匂いも相俟って食欲を何倍にも増進させる。マフィンの外側はカリッカリに焼けているのに中はフワフワで、溶け出した卵黄が染み込んでしっとりしているのがまたたまらない。極めつけはオランデーズソースで、クリーミーなソースの中にレモンの酸味が爽やかさを生み出し、濃厚なのにくどくないという絶妙な味わいを実現していた。


 俺は夢中になってエッグベネディクトを搔っ込んだ。つい昨日まではこんな料理があることすら知らなかったのに、今や生粋のニューヨーカーになったかのようにその味の虜となっていた。この味を知ってしまったら、トーストだけの淡白な朝食には戻れそうもない。

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