7−8

 その翌日、なぜか俺は目覚ましの力を借りずに起きることができ、約束通り8時前にたまご食堂へと向かった。喜美はすでに来ていて、厨房には調理道具と共に紙の束が散らかっている。おそらくエッグベネディクトのレシピだろう。


「あ、おはよう涼ちゃん!」喜美が厨房から出てきて声をかけてきた。「ちゃんと時間通り来てくれたんだね! これも愛の力ってやつ?」


「いや違うだろ。バイトだって思ったから起きれただけだ」俺はすげなく言った。


「ちぇっ、相変わらずつれないなぁ。ちょっとくらいノッてくれてもいいのにさ」


 喜美が唇を尖らせる。本当は喜美の作ったエッグベネディクトを食べる夢を見てタイミングよく目が覚めてしまったのだが、そんなことは口が裂けても言えない。


「まぁいいや。それより朝ご飯は抜いてきたんだよね?」喜美が尋ねた。


「あぁ。試食するなら腹減らしてた方がいいしな」


「うんうん、よくわかってるね! さっすがあたしが惚れた男!」


「前置きはいいから早く作れよ。腹減ってるって言っただろ」


「うわー涼ちゃんってば、いつもの2割増しでテンション低いね。1日の始まりなんだからもっと元気出さないと!」


「朝は普通こんなもんだろ。お前がテンション高すぎるんだよ」


「そう? まぁでも安心して! 涼ちゃんが思わずハイテンションになっちゃうような、とびっきり美味しいエッグベネディクトを作ったげるから!」


 喜美は張り切って言っていそいそと厨房へ戻っていく。朝からうるさい奴だなと思いながらも、俺は少しだけ心がそわそわするのを感じた。でもそれを喜美に知られるのも癪だったので、仏頂面を保ちながらカウンター席に腰を下ろす。


「はい、じゃあ今から早速エッグベネディクトを作ります!」喜美が厨房から言った。


「用意するのはイングリッシュマフィン、ベーコン、卵1個ね! お好みでアボカドやサーモンを乗せても美味しいよ! ソースも一緒に作るけど、その材料は後から説明するね!

 じゃ、まずは肝心のポーチドエッグを作ります! 涼ちゃん、ポーチドエッグってどんな風に作るか知ってる?」


「さぁ……全然わからん。そもそもポーチドエッグって何だ?」


「ポーチドエッグは、生卵を熱湯の中に割り落として作る料理だよ。黄身が半熟で、卵白もちょっとだけ固まってるのが特徴なんだ!」


「温泉卵みたいなもんか?」


「うーん、似てるけどちょっと違うかな。温泉卵は白味も半熟だけど、ポーチドエッグは白味が固まってるから。それに温泉卵は殻のまま茹でるから、どっちかというとゆで卵に近いかな」


「へぇ。でもどっちにしても難しそうだな。固まり具合とかわからなさそう」


「そうそう。慣れてないとポーチドエッグは失敗しやすいんだ。でも今回はちゃーんと失敗しないポイントがあるから大丈夫!」


 喜美が腰に手を当てて胸を張る。そこには見事なまでに突起がなく、俺は昨日の会話を思い出しながら、確かにまな板だな……とぼんやりと考えた。


「で、その失敗しないポイントって?」俺は考えを悟られないように尋ねた。


「いくつかあるんだけど、まずは新鮮な卵を使うことかな。卵って時間が経つと卵白が水っぽくなるんだけど、水っぽい部分があると綺麗なポーチドエッグを作るのが難しくなるんだ。

 で、水っぽさをなくすのにもう一つ大事なのが、割る前に1回卵を濾すこと! そうすると水っぽい部分が落ちて綺麗に仕上がるんだ!」


 喜美が言いながらボウルの上に濾し器をセットして卵を割り入れる。濾し器の間からゆっくりと卵白が落ちていき、半分ほどになった卵白と黄身だけが残る。


「はい! じゃあ次にお湯を沸かします! 卵が浸かるくらいのお湯をお鍋で沸騰させて、それから酢を大さじ2杯入れるよ!」


「酢?」


「うん。酢にはタンパク質を固める成分があるんだ。卵はタンパク質でできてるから、酢を入れることで表面が固まって崩れにくくなるんだ! これも失敗しないためのポイントだね!

 で、酢を入れたら円を描くように混ぜて、回転してるお湯の真ん中目がけて全卵投入! 入れる時は優しくゆっくりね!」


「何でわざわざお湯混ぜるんだ? そのまま入れたらダメなのか?」


「お湯が回ってる方が卵白がまとまりやすいんだよ。沸騰してる状態をキープしておくと卵が自然と回転して、お鍋にもくっつかなくなるんだ! だから火加減は強火にしておいてね! 茹で上がるまでの時間は2分半くらいかな!」


 説明している間にも卵は鍋の中でゆっくりと回転している。まるで洗濯機みたいだなと俺は思った。


「……はい、時間が経ったら火を止めて、お玉で卵を掬うよ! ほら、表面がつるっとして綺麗でしょ? ちょっとしたことに気をつけるだけで仕上がりが全然違うんだ!」


 喜美がお玉で掬った卵を俺に見せてくる。確かに見た目がすべすべで、ぱっと見だとはんぺんみたいだ。


「で、茹で上がったらすぐに冷水につけるよ! 時間は5分くらいかな。そうするとお酢の酸っぱさが抜けて、黄身の半熟もキープできるんだ!」


 いつの間にか用意していた水を張ったボウルに喜美が卵を入れる。相変わらず動きに無駄がない。料理人は朝から料理人なのだと俺は感心した。

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