第7話 愛を結んでエッグベネディクト
7−1
10月初旬、ようやく暑さも一段落し、過ごしやすい気候が続いている。夏場はクーラーの効いた家から出なかった人々も外へ繰り出し、街には行楽ムードが漂っている。
そんな賑わいに包まれる街中で俺、
「ほら、涼ちゃん! ぼーっとしてないで手ぇ動かす!」
やかましい声が耳に届いて俺は顔を上げた。厨房に立つ小柄な女が腰に手を当てて俺を睨みつけている。俺のバイト先の店長、
「ちょっとくらい休んだっていいだろ。どうせ客もいないんだし」
「お客さんがいない間も仕事は続いてるんだよ! テーブル拭いたりお冷補充したり、することはいくらでもあるんだからね!」
「でもほら、変に身体動かして疲れて、客来た時に動けなかったら意味ないだろ? だから充電してんだよ」
「そんなこと言って、ホントはただサボりたいだけでしょ? あたしの目はごまかせないんだからね! ほら、働く働く!」
喜美はそう言って俺に布巾を突きつけてくる。俺はため息をついてそれを受け取った。
俺がここ、『たまご食堂』でバイトを始めたのは今から2週間前のことだ。
最初は飲食店でバイトをするつもりなんかなかった。自分が接客業に向いていないことはわかっている。前のバイト先のコンビニでも、店長から愛想がないだの覇気がないだの散々文句を言われたのだ。そんな俺がどうしてここでバイトをしているのかと聞かれれば、それは成り行きというほかない。
「っていうかさ、お前なんでそんなスパルタなの? 客の時と態度違いすぎない?」
「今は従業員なんだから、態度違うのは当たり前でしょ? お客さんの満足度高めるためには、ちょっとの妥協もできないんだからね!」
「いや、でもさ……。お前、俺のこと好きなんだよな? 好きな男相手にするなら、普通もっと優しくしようって思うんじゃないのか?」
「それはそれ、これはこれ! 今のあたしは恋する乙女じゃなくて食堂の店主なんだから、片思いの相手でもビシバシいくよ!」
喜美はまったく態度を変える様子はない。俺は諦めてテーブルを拭き始めた。
今から3か月前、俺は喜美から告白を受けた。
7月、喜美と一緒にフードフェスに行った帰りのことだ。でもその時は冗談だと思っていて、喜美との関係が変わることもなかった。
関係が変化したのは2週間前、ちょうど俺が前のバイトを辞めた日のことだ。告白の真意を確かめるべく来店した俺に、喜美はもう一度告白してきた。俺が上手そうに料理を食べる姿を見ているうちに、食堂以外でも料理を作ってあげたくなったと言われて。
それを聞いた俺は、すぐに返事をすることができなかった。今まで喜美のことを恋愛対象として見たことがなかったから、好きか嫌いかすぐに判断がつかなかったのだ。
返事を保留したいと言うと、喜美は俺をバイトに誘ってきた。『一緒にいる時間を増やすことで気持ちを摑みたい』というのが理由だったが、そのやり方はあまりにも強引で、普通の男だったら逆に引いてしまうのではないかと思えたほどだ。
以来、俺は喜美に押し切られる形でバイトをしている。ただ、見ての通り喜美は意外とスパルタで、俺がちょっとでもサボろうものなのならすぐに仕事を押しつけてくる。かといって時給が高いわけでもなく、正直前のコンビニの方が楽だったんじゃないかと思った。
食堂のバイトが嫌な理由はそれだけではない。知り合いの客が店に来るたび、俺と喜美との関係を冷やかしてくるのだ。
「お、何だ? ついに夫婦食堂を始めたのか? いやぁめでたいねぇ」
そう言ったのは常連の本田さんだ。俺が前に客として来店した時、喜美と一緒にフードフェスに行くよう(かなり強引に)説得してきた。あれがなかったら喜美が俺に告白してくることもなかっただろう。
「涼太さん! 俺のこと応援してくれるって言ったじゃないっすか!」
悲痛な声で言ったのは板前見習いの岡君だ。彼は喜美への弟子入りを志願しており、将来は喜美と夫婦食堂を営むことを画策している。当時の俺は喜美にまとわりつかれるのが嫌だったから彼の恋路を応援したのだが、まさか自分がライバルになってしまうとは思わなかった。
「涼太あぁ! お前抜け駆けなんてずるいぞ! 喜美さんのこと何とも思ってないって言ったじゃん!」
そう抗議の声を上げたのは大学の友人、
そんな冷やかしや抗議を日夜浴び、おまけに喜美にはこき使われ、俺の労働環境はお世辞にも快適と呼べるものではなかった。そんなに条件が悪いならさっさと辞めればいいのにと言われそうだが、ただ一つだけここでバイトをするメリットがあった。
「はい、亮ちゃん、今日もお疲れ様! まかないの『ふわとろオムライス』だよ!」
くたくたになってカウンター席に着いた俺の前に、喜美が出来たての料理を差し出してくる。綺麗に巻かれたオムライスは見るからにふわとろなのが伝わってきて、口の中が唾でいっぱいになっていく。
「……またオムライスかよ。他にメニューないのか?」俺は内心の喜びを気取られないように言った。
「え、涼ちゃんオムライス嫌いだっけ?」喜美がきょとんとした。
「……いや、好きだけど、毎回食ってたらさすがに飽きる。もっとバリエーション増やした方がいいんじゃないのか?」
「うーん、卵限定だとなかなか考えるのが難しいんだよねぇ。じゃ、卵焼きはどう? 出汁巻きに天津飯、茶碗蒸しもあるよ!」
「食ったことあるメニューばっかりだな。同じもんばっか出してるとそのうち客にも飽きられるぞ」
「うーん、それは食堂としては致命的だねぇ。何かあるかなぁ、新メニュー……」
喜美は真剣な顔をして腕組みをする。どうやらプロ根性に火が点いたようだ。
俺はその様子を横目で見ながら、こっそりスプーンでオムライスを口に運んだ。少し咀嚼しただけで半熟の卵がじゅわっとあふれ出し、蓄積された疲労が一瞬で吹き飛ぶ。
(……本当は毎日オムライスでもいいんだけど、さすがに言えないよな)
俺は独りごちながらオムライスの味を噛み締めていた。
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