6ー9

 いつもと違う道を歩いたので時間がかかり、たまご食堂に着いた頃には18時半を回っていた。引き戸に耳を当ててみたが、店内から客の声は聞こえない。俺は1分ほどためらった後、意を決して引き戸を開けた。


 店には客がいなかった。いつもは点いているテレビの音もなく、店内はしんと静まり返っている。厨房からも何の音もせず、もしかして定休日だろうかと俺は心配になった。


 が、そんな心配は杞憂に終わった。すぐに厨房から例のぱたぱたという足音が聞こえてきたのだ。


「はいはい、いらっしゃい! 何名様ですか……。ってあれ、涼ちゃん?」


 喜美がいつもと変わらぬ様子で俺を見つめてくる。1か月会わないことは今までにもあったが、今はその姿がひどく懐かしく感じられた。


「あぁ……涼ちゃん。よかった、来てくれたんだ。この前かなり怒ってたみたいだから、今度こそ来てくれないかと思って心配してたんだ」


 喜美が表情を綻ばせて言った。口調がいつもより大人しいところを見ると、どうやら本気で心配していたらしい。


「……この前はちょっとキツイ言い方しすぎた。だからそのうち俺も謝ろうとは思ってたんだ」俺はこめかみを搔きながら言った。「でもお前、あれからLINEも何もしてこなくなったし、だから俺もそのままになってた」


「あ、そうなの? いや、あたしもさすがに涼ちゃんのこと振り回し過ぎたなって反省してさ。もう自分から連絡取らない方がいいかなって思ってたんだ」


 喜美がえへへ、と笑って後頭部に手を当てる。何だ、忘れたんじゃなくて単に遠慮してただけなのか。俺は少し安堵した。


「じゃ、気を取り直して席へどうぞ! 今日は何にする? オムライス? 卵焼き? それとも違うメニューいっとく?」


「いや……今日は飯食いに来たんじゃないんだ。その……お前に聞きたいことがあって」


「あたしに?」


 喜美がきょとんとして俺を見返してくる。途端に俺は自分がものすごく恥ずかしいことをしてる気分になってきた。相手が何も言ってこないのに、告白の真意をわざわざ確かめるなんて男としてどうなんだろう。しかも今は営業時間中で、他に客が来ないとも限らない。そんな時にこの話題を持ち出しても迷惑なだけかもしれないと思い、俺は自分の発言を撤回しようとした。だが幻聴がそれを押し留めた。


『笠原君、ファイトよ! ここで引き下がったら男の子じゃないわよ!』


 俺は深々とため息をついた。あの人は別れても俺を解放してくれそうにない。


「……ほら、7月のフードフェスの時、お前、最後に告白みたいなことしてきただろ。あれ何だったのかなって思ってさ」


 俺はポケットに手を突っ込み、壁にかかった板のメニューを見ながらさもどうでもよさそうに言った。だが実際には心臓がバクバク鳴っていて、店内は涼しいにもかかわらず背中からは汗が噴き出してくる。


 喜美はきょとんとした顔のまま、何度も瞬きをして俺を見つめてきた。その照れも恥もない表情を見れば、本気でなかったことは明らかだ。


「あぁいや、冗談だったらいいんだ」喜美の返事を待たずに俺は言った。

「まぁ俺も、あんな謎のタイミングで言われて本気だなんて思ってなかったし。ただ、変に誤解したままでいるのも嫌だから、一応確かめといた方がいいと思っただけで」


 俺は一人で話を終えると、そのまま喜美の顔を見ずにUターンし、足早に店を出て行こうとした。そこで喜美が不意に呟いた。


「……そっかー。やっぱり冗談と思われちゃったかぁ」


 俺は引き戸にかけていた手を止めた。背後から喜美の声が続く。


「とりあえず勢いで言ってみたけど、やっぱりあのタイミングはないなって自分でも後から思ったんだよね。あたしってそっち方面はほんっとダメだなぁ」


 俺がそろそろと振り返ると、喜美が頬を搔いて苦笑していた。発言の真意がわからず、俺はまじまじと喜美を見返した。


「……あの、今の会話の流れだと、本気だって言ってるように聞こえるんだけど」


「え? うーん、あ、そっか。そうなっちゃうんだねぇ。うーん、どういう風に言えばいいのかなぁ……」


 喜美が腕組みをして難しい顔をする。まさか、という思いで俺は返事を待った。


「……あのね、涼ちゃんが初めてこの店に来た時のこと、覚えてる?」喜美が小声で尋ねてきた。


「初めてって言うと……今年の4月だっけ」


「うん。あの時涼ちゃん、オムライス注文してくれたよね。で、その時オムライス食べてる涼ちゃんの顔が、ものすごぉく幸せそうだったんだ」


「……そんなに? 普通の顔してたつもりだったんだけど」


「違うよ。もう顔からしてとろけそうで、幸せの絶頂みたいな感じだったし」


 俺はそんな顔をしてオムライスを食っていたのか……。それを今まで何度もこいつに見られていたと思うと恥ずかしさに顔から火が出そうになる。


「で、その後も何回もお店に来てくれて。文句言いながらもいっつも美味しそうに食べてくれたでしょ」喜美が続けた。


「それを見てるうちにあたし思ったんだ。あぁ、この人は、あたしが作った料理を本当に美味しいと思ってくれる。あたしの料理を心から楽しみにしてお店に来てくれてるんだって。……そんなこと考えてるとね、いつの間にか、涼ちゃんにもっといろんな料理を食べさせてあげたいって思うようになったんだ。……できたら、お店以外の場所でも」


 喜美はそう言ってうつむいた。その顔が少しだけ赤くなっているのは熱さのせいではないだろう。


 俺は何と言葉を返せばよいかわからなかった。俺は何も考えずに喜美の料理を食っていただけなのに、そんな俺を見て喜美の心は変わっていった。茶碗蒸しだけではない。喜美が俺に出した全ての料理に、あいつの真心が込められていた。

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