6ー6
それは俺が夜のシフトに入る日のことだった。いつものようにたまご食堂に行くか行かないかで頭を悩ませ、結局行かない選択をしてからバイト先に向かったのが17時40分くらいのこと。10分後に店に到着し、自動ドアを潜った瞬間に店長の怒声が耳に飛び込んできたのだ。
「どういうことかちゃんと説明してくれる!?」
一瞬自分が叱られたのかと思い、俺はびくりとして肩を上げた。だがもちろん店長が怒っている相手は俺ではない。レジの方を見ると、顔を真っ赤にしている店長と、その前で
「1万円もマイナスって……どう考えてもあり得ないでしょ! 注意不足にも程があるよ!」
「すみません……」
唾を飛ばす店長に対し、項垂れている店員が力なく呟く。その声を聞いて俺ははっとした。
「小林さん?」
意識するより先に俺は呟いていた。店員が顔を上げて俺の方を見る。それはやはり小林さんだったが、その顔はひどく疲れた様子で、いつもの若々しさは微塵もなかった。
「あぁ笠原君? 君も毎回ギリギリだねぇ」店長が厭味ったらしく言った。「15分前には着替えまで終わらせて、外の掃除するようにっていつも言ってるよね?」
店長が呆れ果てたような目で俺を見る。だが俺は構わず小林さんに尋ねた。
「あの、何かあったんですか? 1万円がどうとかって聞こえたんですけど」
「それは……」
「あぁ、一応君にも知らせとかないとね」店長が話に割り込んできた。
「今日の昼間は僕と彼女と2人で入ってたんだけどね、お客さんも少なかったから、レジは基本的に彼女に任せてたんだよ。で、夜番の人と交代する前にレジの現金を数えてたら、入力された金額より1万円も足りないじゃない」
なるほど。それで店長の怒りが爆発したというわけか。俺はようやく納得した。
「でも1万円って大きいですね。10円20円だったらお釣りを渡し過ぎた可能性もありますけど」
「そうなんだよ。まさか千円と間違えて5千円を渡したわけじゃないだろうし」
「あの……もしかしたら、公共料金のせいかもしれません」小林さんがおずおずと言った。
「1人、公共料金の支払いをされた方がいたんですけど、複数の支払いを一気に済ませようとされたみたいで、請求書が8枚くらいあったんです。そんな何枚も処理するのが初めてで……。金額も10万円を超えていたので、そこで誤差が出たのかもしれません」
「あぁ、あれ一気に持って来られると焦りますよね。金額大きいからって慎重にやってると、後ろのお客さんから文句言われますし」
俺は実感を持って頷いた。俺がバイトを始めたての頃も、公共料金の支払いはできればやりたくない仕事の1つだった。操作自体はバーコードを読み込むだけなのだが、何せ金額が大きいので緊張するのだ。
「そんな言い訳は聞きたくないよ」店長がぴしゃりと言った。「お客さんの求めるサービスを提供するのはコンビニ店員として当然のことだよ。君の言い方だと、請求書を何枚も持ってきたお客さんの方が悪いって言ってるように聞こえるよ」
「そんなことは……」
「とにかく、こんな大きな損失を出した以上、君には責任を取ってもらわないとね」店長が間髪入れずに続けた。
「損失分は給料から天引き。本来なら全額払ってもらいたいとこだけど、僕も鬼じゃないから、僕と君とで5千円ずつの折半にしてあげるよ」
「ちょっと待ってください。それって違法じゃないですか?」
俺は思わず言っていた。店長がじろりと俺を見やる。
「従業員が損害出しても、それを給料から天引きすることってできなかったはずです。労働基準法の授業で習いましたよ」
普段は授業にさして関心のない俺がその話を覚えていたのは、同じ授業を受けていた友人の
「……はぁ、中途半端に知識だけ身につけて、頭でっかちな子は嫌だねぇ」店長がこれ見よがしにため息をついた。
「君ねぇ、権利を主張するなら、まずは義務を先に果たすのが筋なんじゃない? 君はここで働いてもう9か月も経つのに、未だに15分前の出勤ルールを守ってない。なのに都合のいい時だけ法律を持ち出すなんて……」
「そもそも、15分前に出勤させるルール自体もおかしいですよね? 勤務時間は18時からなんだから、18時に間に合ってれば文句を言われる筋合いはないはずです」
「あのねぇ笠原君、それはあくまで教科書の中の話でしょ? 現実の社会じゃ時間ちょうどに来ればいいなんて甘い会社はないよ? 少しでも早く出勤して、仕事をするための環境を整えるのが社会人としての常識なんだ。君もいずれ社会に出るんなら、教科書と現実が違うことを学ばないと……」
「一般論でごまかさないでください。どっちにしても小林さんの給料から天引きするのはおかしいです。店の損失は店で負担するべきじゃないんですか?」
「はいはい。君が勉強熱心な学生だってことはわかったから、さっさと着替えてレジに入ってよ」店長がうるさそうに手を払った。
「まったく……指示されたことはしないくせに口だけは達者なんだから。どうして最近のアルバイトはこうも質が低いんだろうね」
店長はさも嘆かわしそうに言うと、さっさとバックヤードに引っ込んでしまった。反省するどころかこちらを責めるような物言いに俺もさすがに腹が立ち、急いで後を追おうとした。だが、それより早く小林さんが俺の肩に手をかけて言った。
「笠原君、もういいのよ。元々は私のミスなんだから。あなたが自分の立場を悪くすることはないわ」
「でも実際おかしいですし……。しかも小林さんがシフト入ってるのって週2日だけでしょ? それで5千円も引かれたら痛すぎると思うんですけど」
「痛いのは事実だけどしょうがないわ。私みたいなパートが何言ったって聞いてもらえないもの。ここをクビになったら他に行くとこがないし、苦しくても我慢しないと」
小林さんは寂しげに笑ったが、俺はかえって居たたまれなくなった。1万円もの損失を出して一番ショックだったのはこの人のはずだ。それなのに、店長は小林さんを必要以上に責め立て、違法な方法を取ってまで責任を取らせようとする。そんな横暴が俺は許せず、何とかして店長に自分が間違っていることを思い知らせてやりたくなった。
俺はしばらく考えた後、小林さんに向かって言った。
「……小林さん、俺、今からちょっと店長と話してきます。客増えてきたらすぐに呼んでください」
「笠原君?」
小林さんが当惑した視線を向けてくる。俺は返事をせずにバックヤードへと向かった。
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