5ー6

 それから間もなく、厨房のカーテンが開いて喜美が声をかけてきた。茶碗蒸しの実演調理を見るかと聞かれ、俺が返事をするより先に岡君が大きく頷いた。


「もちろんっす! 師匠の技を間近で見られるチャンスっすから!」


 そういうわけで、俺は実演調理の見学に付き合わされることになった。嫌々ながらカウンターに移動し、岡君と並んで腰かける。


「じゃ、これから茶碗蒸しを2人前作ります!」喜美が張り切って言った。「用意するのは卵2個、鶏もも肉4分の1、後は椎茸、かまぼこ、銀杏、三つ葉、エビね! 他に筍や栗、百合根を入れても美味しいよ!

 まずは具材を切るところから。椎茸は石づきを取って傘の部分をスライスして、かまぼこはいちょう切りにするよ! もも肉は皮と筋を取って1センチ角くらいに切るよ! 切り方が大きいと火が入らないから注意してね!」


 喜美は説明しながら手際よく材料を切っていく。普段の言動からつい忘れそうになるが、調理場面を見ているとやっぱりプロなんだということを実感する。


「鶏肉が切れたら、最初に霜降りって作業をするの。鶏肉をざるに移して、その上から熱湯をかけるんだけど、これをやると表面が白くなって、霜が降ってるみたいに見えるから霜降りって言うんだ!」


「へぇ、霜降りってそんな意味だったのか。俺牛肉のことかと思ってたわ」


「それは別の意味っすね」岡君が口を挟んだ。「霜降りって二つ意味があって、一つは今の下ごしらえの方法。もう一つは、赤身の肉に脂肪が網の目状に入ってることを言うんすよ。霜が降ってるように見えるっていう言葉の由来は一緒なんすけどね」


「へぇ……。それは知らなかったな。板前志望なだけあって詳しいんだな」


「いやいや、褒めすぎっす! 俺なんてまだまだ見習いっすから!」


 手を振って謙遜しながらも岡君は嬉しそうだ。こんなチンピラみたいな外見じゃなかったら普通に友達になれそうなのにな。


「霜降りをしたらお湯の中で鶏肉をかき混ぜて、それから冷水に移すよ! これをやると鶏肉の臭みが消えるので、しっかり混ぜておいてね!」


 俺達が話している間にも喜美の調理は続いている。菜箸で手早く鶏肉をかき混ぜ、隣にある冷水のボウルにざるを漬ける。


「はい、そしたら今度は卵の液を作ります! まず卵を割って、黄身を切るようにしてよく混ぜたら出汁を入れるよ! 茶碗蒸しの場合、卵1個に対して180CCの出汁を使うから、今回は360CCね! 出汁は予め取っておいたかつおの出汁に、薄口醤油と酒を少量加えたものを使うよ! 出汁は必ず冷ましておいてね!」


 喜美が片手で卵を割り、流れるようにボウルに入れていく。泡だて器を使って慣れた手つきで卵液をかき混ぜ、鍋からお玉で出汁を掬う。鰹節の香ばしさが鼻孔を擽り、満たされたはずの腹が再び鳴りそうになる。


「出汁を入れたらもう1回かき混ぜて、その後裏漉して滑らかにするよ! 口当たりが良くなるから1回は濾しておいてね! ここまでやったら準備は完了で、後はいよいよ蒸していくよ!」


「あれ、喜美さん、椎茸に下味付けなくていいんすか?」岡君が尋ねた。

「俺が前働いてた料亭では、余った出汁で椎茸を軽く煮てましたけど」


「あぁうん。丁寧にやるならそっちの方がいいね。その方が味も染み込むし」喜美が頷いた。

「ただちょっと時間がかかるから、あたしはやってないんだ。あんまりお客さん待たせちゃうのも悪いしね」


「なるほど、そこにも気配りがあるんすね。さすが喜美さんっす!」


 岡君は熱心に頷きながらメモを取っている。俺は意外そうにその様子を見つめた。彼が勉強熱心なことよりも、この外見で料亭の店員をしていたことが信じられなかったからだ。


「三つ葉は飾りに使うから今は入れずに、それ以外の材料を器に入れるよ! 卵液を8分目くらいまで流し込んで、蒸し器で10分くらい煮るよ! この時温度が重要で、沸騰しない90℃くらいを保つのがポイントだよ! 沸騰するとすが出るから注意してね!」


「酢?」俺は怪訝そうに聞き返した。


「うん。お酢じゃなくて『す』ね。卵液に細かい穴が空くことなんだけど、すが出ると食感がぼそぼそして舌触りが悪くなるんだ。だから温度調整が重要なんだ!」


「ふうん……。細かいとこに気ぃ遣うんだな」


「卵はデリケートだから、扱いにも注意が必要なんだ。女の子と一緒だね!」


 喜美がそう言って意味ありげな視線を向けてくるが、俺は無視した。


「で、卵液を注いだら、水分が入らないように器にラップで蓋をするよ!」喜美が何事もなかったように続けた。

「蓋をしたら蒸し器に入れて、弱火で10分くらい蒸すよ! もし蒸し方が足りない場合は5分くらい追加しても大丈夫!」


「家に蒸し器がない場合は、鍋の底に布巾を敷いて、器が半分漬かるくらいお湯を入れるといいっすよ」岡君が補足した。

「ただ、この時も温度には注意っすね。温度計で計っておくといいと思うっす」


「家で作ることはまずないだろうな」俺は関心なさそうに頬杖を突いた。

「そもそも料理しないし、茶碗蒸しみたいな手間かかるもの作ろうって発想にならない」


「え、涼太さん料理しないんすか?」岡君が意外そうに言った。


「そうなんだよ岡君。涼ちゃんってば散々あたしの講義受けてるくせに、全然実践してくれないんだよ。ひどいと思わない?」喜美がここぞとばかりに言った。


「俺は別に板前とか目指してないから。実演調理だって好きで見てるわけじゃないし」


「あーあ、そうやって女の子の好意を無駄にするんだ。つれない男はモテないよ?」


「モテなくて結構だ。つーか早く調理の続きしろよ」


「はいはいわかったよ。と言っても、後は蒸し器に蓋して待つだけなんだけどね。待ってる間に出汁巻き定食の方仕上げちゃうから、席戻って待ってて!」


 喜美は蒸し器のスイッチを入れ、慌ただしく厨房の奥へと戻っていく。やっと解放された、と思いながら俺はため息をついた。

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