第5話 蒸した気持ちをお茶碗に

5ー1

 8月に入り、連日うだるような暑さが続いている。灼熱のような太陽がアスファルトを焦がし、少し外を歩くだけでも身体中から汗が噴き出し、じっとりと不快な気分にさせられる。だから俺、笠原涼太かさはらりょうたは外出しようなどとは少しも思わず、クーラーの効いた自分の部屋で、ベッドに寝っ転がりながらスマホをいじっていた。


 心配していた期末試験については、あの後死に物狂いで勉強したおかげで何とか一つも取りこぼさずに済んだ。ほっと一息ついたところで夏休みに突入し、俺は勉強から解放されて束の間の休息を味わっていた。友達の中にはサークルに精を出したり旅行に行ったりする奴もいたが、俺はこれといって予定はなく、せいぜいバイトに出掛けるくらいだった。


 スマホのカレンダーを確認する。次のバイトは明日だ。夏休みに入ってから、俺は普段週3で入っているバイトを週5に増やしてもらっていた。もちろん稼ぎたいからだが、その分店長にねちっこく嫌味を言われる時間も増えるので手放しでは喜べない。


(でも、何だかんだ言って今のとこは慣れてるし楽なんだよな。下手にバイト変えて、また仕事覚え直すのもめんどくさいし……)


 俺のバイト先はコンビニだが、給料が最低賃金すれすれな上に、店長が口うるさいので決して条件のいいバイト先ではない。今までも何度も辞めようとしたが、結局惰性で続けて今日に至っている。


(まぁでも、バイトなんてどこも同じようなもんだよな。どうせ就職したら辞めるんだし、今のままでいいか)


 俺がそんなことを考えていると、不意にスマホの着信音が鳴った。画面に表示された名前は『井川昌平いがわしょうへい』。大学の友人だ。電話なんて珍しいな、と思いながら俺は通話ボタンを押した。


『もしもし?』


『あ、涼太? 昌平だけど、今時間ある?』


『あるけど、どうかした?』


『いや、もし暇だったら、今から一緒に飯でも食いに行かねぇかって思って』


『飯? いいけど珍しいな。今日バイトじゃないのか?』


 昌平のバイト先は牛丼屋だが、常に人が足りず、ワンオペが常態化しているブラックバイトだ。夏休みに入ってからは週6で働かされていると会うたびに文句を言っていた。


『うん。今日はシフト夕方からなんだ。で、その前に美味いもんでも食いに行きたいと思って』


 結局今日もバイトなのか。俺は昌平に同情しながら言った。


『そっか、大変だな。俺は今日何も予定ないし、いいよ、行く。何系がいい?』


 夜なら居酒屋に行くところだが、昼間だとどこがいいだろう。ラーメン、丼もの、焼き肉……。俺が適当な店を考えていると昌平がすかさず言った。


『じゃ、あそこにしよう! お前の彼女がやってる店!』


 いきなり地雷をぶちこまれて俺はベッドから落ちそうになった。スマホを取り落としそうになったので、慌てて身体を起こしてすんでのところでキャッチする。


『ちょっと待て。あいつは彼女じゃないって言っただろ』俺は電話を耳に当てて言った。


『そのことなんだけどさ、俺、やっぱり信じられねぇんだよな。だってお前、彼女でもない子と休みの日に一緒にフードフェス行って、仲良く手まで繋ぐか?』


『だからあれは誤解だって。あいつは食堂の店長で、俺はそこの客。それ以上の関係はないってずっと言ってるだろ』


『いや、でもさぁ、やっぱお前らなんかあると思うんだよな。傍から見てもいい感じだったし、実は付き合ってんじゃね?』


『だから違うって……』


 終わりのない押し問答に早くも疲れ、俺は大きくため息をついた。昌平が言っているのは、1ヶ月前くらいに喜美きみと行ったフードフェスのことだ。


 本場の天津飯を極めたいという喜美に巻き込まれる形で同行させられ、成り行きで手を繋いでいたところを昌平に目撃された。以来、昌平は喜美が俺の彼女だと思い込み、友達に会うたびに言いふらそうとして止めるのが大変だった。夏休みに入ってようやく大人しくなったと安心していたのだが、どうやら事態は沈静化していなかったらしい。


『な、いいだろ? 俺、あの子にもう一回会ってみたいんだよ!』昌平が興奮気味に言った。『あの子結構可愛かったし、手料理も食べてみたいなって思って!』


『……行くなら1人で行けよ。俺を巻き込むな』俺は心底嫌そうな声を出した。


『いや、1人で行ってもつまんねぇじゃん。あの子の前でお前がどんな風になるか見てみたいしさ。やっぱあれ? あの子と2人でいる時はデレデレになって、『キミティ』とか『喜美たん』とか呼ぶわけ?』


『勘弁してくれ……』


 俺はがっくりと頭を垂れた。お前の中で俺はどんなキャラなんだよ。


『とにかく俺は行かない。俺、もうあの店には行かないって決めてるんだ』俺は気を取り直してきっぱりと言った。


『え、何で? もしかしてあの子と喧嘩でもした?』


『……違う。ただ……あんまり顔を合わせたくない』


『何だよそれ。あの子との間に何かあったのか?』


 俺は憮然として黙り込んだ。あったと言えばあった。フードフェスで別れる直前、喜美が俺に投げつけてきた言葉を思い出す。



『涼ちゃん、あたし、涼ちゃんのこと好きだよ?』



 ムードも脈絡もない謎の告白。俺はそれを真に受けたわけではなく、ただの冗談だろうと軽く受け止めていた。でもその実、心のどこかでずっと引っ掛かっていて、喜美に連絡をして、あるいは店に行って真偽を確かめたい衝動に何度も駆られた。だが、結局いつも恥ずかしさが勝ち、あれ以来、俺は一度も喜美に会うことも、連絡を取ることもなかったのだ。


『……ふーん。その感じだと、やっぱ何かあったみたいだな』


 俺の沈黙を肯定と解釈したらしい昌平が言った。そうだ。俺はあいつと会うのが気まずいんだ。だから諦めて他の店に行こう。俺はそう続けようとしたのだが、昌平の次の言葉が見事に期待を裏切った。


『でもさ、会いづらいんだったら余計に今行っといた方がいいって。このまま気まずくなって別れるとか嫌だろ? 話しづらそうだったら俺が取り持ってやるし。ってことで決まりな!』


『え、いやちょっと待てよ』俺は慌てて声を上げた。『今からってさすがに急すぎるだろ。俺にも心の準備ってもんが……』

 

『場所は前聞いたから知ってるし、時間は1時間ありゃ十分だな。ってなわけで1時に現地集合な!』


『いや、人の話聞けよ! あの店には行かないって言ってるだろ!』


 俺は最後まで抵抗を試みたが、その時にはすでに昌平は電話を切っており、ツーツーという無情な通話終了音が聞こえただけだった。俺は舌打ちをしながらスマホを耳から離した。


「……ったく、どいつもこいつも勝手なことばっか言いやがって」


 こんなことになるなら最初から行くなんて言うんじゃなかった。すっぽかしてやろうかとも思ったが、もし行かなかったら、喜美が昌平にさらなる誤解を生むようなことを言い、それを昌平が友達に拡散しかねない。俺のキャラがこれ以上崩壊することだけはごめんだ。


 俺は疲れた顔でため息をつくと、ベッドから下りて着替える服を探し始めた。

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