4ー10

「よし! いよいよ試食だね! あーもうこの餡だけでご飯3杯いけそう」


 先にコックから芙蓉蟹フーヨーハイを受け取った喜美がうっとりとして言った。かに玉1つで大袈裟な……と俺は呆れたが、いざ自分も芙蓉蟹を手にすると、とろりとした餡に一瞬で目を奪われ、思わずごくりと唾を飲み込む。


「じゃ、本場の味とやらを『堪能』してやるか」


 俺は平静を装って呟くと、蓮華でそっと卵を割り、餡と絡めて口に運んだ。

 口に入れた瞬間、その柔らかさに俺は目を見張った。両面しっかりと焼いたはずなのに中は半熟で、内側から溶け出した卵が舌の上で跳ね、とろりとした餡と絶妙に絡み合う。椎茸と蟹から染み出た出汁が卵に染み出し、そこに葱の風味が加わって何とも贅沢な味わいを生み出している。塩ベースのシンプルな味つけが卵の旨味を何倍にも引き出し、小食の俺ですらご飯3杯いける、と思わせるほどだった。


「……確かに美味い」俺は呟いた。「さすが本場、って感じだな。チェーン店とは比べもんになんねぇや」


「だよねぇ」喜美がはふはふと芙蓉蟹を啜った。「甘酢や醤油の餡もいいけど、やっぱ本家は塩味だよねぇ」


「ん? かに玉の餡ってそんなに種類あるのか?」


「ううん、芙蓉蟹は基本塩味だけ。でも天津飯は地域によって違うんだよ。関東だとケチャップベースの甘酢餡、関西だと醤油餡が多いんだ。うちの店で使ってるのは甘酢餡だね」


「あぁ。そういや本田さんが食ってた天津飯も、餡が赤かったっけ……」


 俺は納得して頷いたが、そこでふと思いついたことがあった。


「あのさ、本田さんが言ってた『天津飯の味が違う』って、もしかしてそのせいじゃないか?」


「え、どういうこと?」喜美が首を傾げた。


「本田さんの奥さんは中国人なんだろ。だからたぶん、天津飯の味も本場の塩味だった。でもお前の店の天津飯は甘酢味だ。だから違和感があったんじゃないか?」


 喜美がぽろりと割り箸を取り落とした。口の端についた餡を拭うのも忘れ、まじまじと俺の顔を見つめている。


「……涼ちゃん」喜美が掠れた声で呟いた。


「何だよ」


「それだよそれ! どうしてもっと早く気づかなかったんだろ!」喜美が拳を握り締めて叫んだ。「つまり餡が塩味の天津飯を作れば、本田さんに満足してもらえるってことだよね!」


「たぶんな。でもそんな簡単に作れるのか?」


「大丈夫! そこのお兄さんに本場の味を伝授してもらったからね! うおお! 俄然やる気が出てきたぞぉ!」


 喜美は雄叫びのような声を上げると、割り箸を拾い、残りの芙蓉蟹をがつがつと掻っ込み始めた。中華鍋並みの炎が目と背景に燃え上がっているのが見える。


「お客さん、私の料理、役に立ったアルか?」


 俺達の様子を見ていたらしいコックが尋ねてきた。新規の客が来ずにヒマらしい。


「ええ。おかげで変なスイッチが入ったみたいです」俺は答えた。


「それはよかた。あなたとお嬢さん、とてもおみあい。お嬢さん、大切にするネ」


「お見合いじゃなくてお似合い。どっちにしても、俺はあいつとはそういう仲じゃないって……」


 俺は疲れ果ててため息をついた。本田さんといい、昌平といい、この中国人コックといい、どうして揃いも揃って俺と喜美をくっつけたがるんだ。


(まぁ、目的は達成できたからいいか。これ食ってさっさと帰ろう)


 俺はそう言って残りの芙蓉蟹を食べようとしたが、そこで喜美の姿が視界に入った。喜美は難しい顔で何やら考えこんでいたが、俺と目が合うとにっこり笑って言った。


「涼ちゃん、今日はありがとね! おかげで天津飯のヒントも見つかったし、それに一緒にフェス回れて楽しかった!」


「……こっちは大迷惑だったけどな」俺はぶすっとして言った。「おかげで半日も無駄にしちまった。帰ったらすぐ勉強しないと」


「またまたそんなこと言って。涼ちゃんだって楽しかったんでしょ?」


「んなわけあるか。人多くて疲れただけだっつうの」


「ふーん? その割には芙蓉蟹フーヨーハイ美味しそうに食べてるけど」


「料理が美味いのは認める。でもフードフェス自体が楽しかったわけじゃない」


「ちぇっ、涼ちゃんってば相変わらず意地っ張りだなぁ」


 喜美が唇を尖らせた。こいつが俺に何を期待してるかは知らないが、目的が達成できた以上茶番に付き合う気はない。俺は無言で芙蓉蟹を咀嚼し続けた。


「ま、よかったらまた店に遊びに来てよ」喜美が気を取り直したように言った。「今度来る時には、本田さんを唸らせるとっておきの天津飯出したげるから!」


「いらん。っていうか、今度こそ絶対に店には行かない。これ以上本田さんに妙な誤解されても面倒だからな」


「誤解って?」


「……お前は知らなくていい」


 俺は憮然として言うと、最後の芙蓉蟹を口に運んだ。蓮華と皿をごみ箱に捨て、喜美に背を向けて足早にその場を立ち去ろうとする。


「涼ちゃん!」


 喜美がなおも俺を呼び止めた。俺は苛立って振り返る。


「何だよ!?」


 喜美はすぐには答えなかった。俺の顔を上目遣いに見つめた後、小首を傾げてにっこり笑う。


「涼ちゃん、あたし、涼ちゃんのこと好きだよ?」


「は?」


 突然爆弾を投下されたような気分になり、俺は目を見開いてまじまじと喜美を見つめた。


「おい。今のはどういう……」


「あ、もうこんな時間だ!」喜美が腕時計に視線を落とした。「今から帰ったら夕方には店開けれるよね! じゃ、涼ちゃんまたね! テスト頑張ってね!」


 喜美は一方的にそれだけ告げると、入口に向かって走って行ってしまった。


「おい、ちょっと待てよ!」


 俺は咄嗟に喜美を呼び止めようとしたが、その時にはもう、喜美の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。


「……ったく、何なんだあいつ」


 俺は舌打ちをして頭を掻いた。人のことを散々振り回して、最後には思わせぶりな台詞を残して、あいつ、子どもみたいな成りして実は魔性の女なんじゃないだろうか。


「まぁ……俺には関係ないけどな」


 俺は独り言ちると、喜美が向かったのとは反対側の入口へと歩いて行った。

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