4ー9

「『天津飯』という名前からして、当然料理にはご飯が含まれているはず」喜美は言った。「でも、このお店にはご飯が用意されていない……。その謎を解くカギはズバリ! 芙蓉蟹フーヨーハイの正体にあったのです!」


「芙蓉蟹の正体?」


 俺は目を細めて聞き返した。いきなり何を言い出すんだこいつは。


「芙蓉蟹って日本語で何て言うか知ってる?」喜美が尋ねた。


「知らねぇよ。天津飯じゃないのか?」


「ぶっぶー。外れ。正解はね、かに玉! 涼ちゃんも食べたことあるでしょ?」


「かに玉……」


 もちろん食べたことがある。たまご食堂を知る前には、行きつけだった中華料理チェーン店で何度も注文したものだ。言われてみれば、確かにかに玉にはご飯がない。


「そっか。かに玉と天津飯って違う料理なんだな」俺は頷いた。「あんまり意識したことなかったけど、かに玉をご飯にかけたのが天津飯ってわけか」


「そのとーり!」喜美がぱちんと指を鳴らした。「でもね、実は天津飯の発祥って日本なんだよ」


「そうなのか?」


「うん! 中国ではかに玉をご飯にかけるっていう発想がなかったんだ。じゃあどこで生まれたのかって話なんだけど、これには2説あってね。

 1つ目は浅草発祥説。これは1910年に、『来々軒』っていう浅草にある中華料理店が考案したっていう説ね。その店のコックさんが、お客さんから早く食べられるもの作ってほしいってリクエストされて、そこでかに玉にご飯を乗せて、酢豚用の甘酢っぱい餡をかけて出したって言われてるんだ!

 で、もう1つが大阪発祥説ね。これは大正時代に、大阪にある『大正店』っていうお店の店主が、戦後の食糧不足で売り物がなかった時に考案したっていう説ね。

 天津の食習慣の1つに、ご飯の上に料理を乗せる『蓋飯カイファン』っていうのがあるんだけど、店主はこれをヒントにして、天津で収穫が多かったワタリガニを卵で閉じて、餡をかけて『天津飯』っていう名前で売り出すことを思いついたんだ!

 ただワタリガニは高価だから、大阪で採れたエビで代用したみたいだけど。ま、どっちにしても日本で生まれたのは間違いないよ!」


 天津飯の由来を滔々と語る喜美を、俺は呆気に取られて見つめた。情報が多すぎて理解が追いつかないが、少なくともこれだけは言える。


「……お前もしかして、天津飯が中華料理じゃないってこと知ってたのか?」


「うん。っていうか、さっき思い出したんだ」喜美が照れくさそうに笑った。


「昔、食堂のメニュー考える時にね、天津飯とかに玉の違い調べたことがあったんだ。

 でもさ、お客さんからしたら、『天津飯』が日本料理って言われても違和感あるじゃん? だからお店では中華料理ってことにして、『ふるさとの味・天津飯』って名前にしたんだ。 で、そうやって中華料理のイメージのまま来てたから、あたしも日本料理だってこと忘れてたんだ」


「何だよそれ……。じゃあ最初から無駄足だったってことじゃねぇか」


 俺は両膝に手をついてがっくりと肩を落とした。中華料理ではない天津飯が、中華料理のフードフェスにあるはずがない。今朝からの時間が全て無駄だったとわかり、たちまち徒労感がこみ上げてくる。


「まぁまぁ涼ちゃん、そんなに落ち込まないで」喜美がぽんと俺の肩を叩いた。「天津飯なら、今度あたしがお店でとびっきり美味しいの食べさせたげるから!」


「……天津飯なんかどうだっていい」俺は絶望的な気分で呻いた。「明日語学の試験なんだぞ? この時間あったらいくつ単語覚えられた?」


「テスト? あー、うーん、そうだねぇ。今から芙蓉蟹フーヨーハイ食べて精つけるってのはどう?」


「オー、それがいいネ。食べ物、万能。美味しいもの食べたら、問題みな解決する」


 いつの間にかコックが会話に加わっていた。喜美は「ですよね!」と力づく頷き、「特に卵は……」と例の熱弁を振るおうとしたので、俺は慌てて立ち上がった。これ以上料理バカ2人に付き合わされるのはごめんだ。


「卵の話はいいから、早く芙蓉蟹作ってくれよ。後は餡だけなんだろ?」


「オー、そうネ。芙蓉蟹の餡、鍋で作る。材料は塩、胡椒、砂糖、水300、後は味覇ウェイパー入れるネ!」


「ウェイパー?」


「中華スープの素のことだよ」喜美が答えた。「鶏骨と豚骨をベースに、野菜のエキスや香辛料なんかをブレンドしたものなんだ! ちょっと加えるだけで本格的な中華の味が出せるからお勧めだよ!」


「へぇ……。初めて聞いたな。家じゃあんまり使い道なさそうだけど」


「まぁそうかもね。家庭だと鶏ガラスープの素で代用するのもありだと思うよ」


「……俺は作らないけどな」


 俺は頭を掻いて言った。実家に帰った時に母さんか姉ちゃんにでも教えてやるか。


「材料、先に混ぜる。混ぜてから鍋入れて、それから沸騰させる。沸騰したら火止めて、片栗粉入れる」


 コックはボウルで調味料を混ぜ合わせると、それを中華鍋に注いだ。コンロに火をつけ、沸々したとしたところですぐに火を止める。


「何で火止めるんだ? せっかく沸かしたのに」俺は尋ねた。


「片栗粉は火が通るとすぐに固まるんだよ」喜美が答えた。「火つけたままだったら、入れた傍からダマになっちゃうから、だから1回止めないといけないんだ」


「そうネ。お嬢さんよくわかてる。あなた素人」コックが俺に箸を向けた。「今の時代、男も料理するの当然。料理しない男、結婚できない」


「うるせぇよ」


 何で初対面の中国人に説教されなくちゃいけないんだ。俺は不愉快になり、このまま帰ってやろうかとも思ったが、中途半端に終わるのも気持ちが悪いので渋々留まる。


「片栗粉入れて、ダマならないようしっかり混ぜる。混ざったら火つける。とろみついたら火止めて、ごま油入れる」


「ごま油は風味付けだね」喜美が言った。「最初から入れるとで風味が飛んじゃうから、火を止めた後に入れるのがポイントだよ!」


 コックが基本的な作り方を説明し、喜美がところどころ解説を入れる。2人して俺に天津飯――もとい芙蓉蟹フーヨーハイの作り方を伝授しようとしてるみたいだ。言っとくけど俺は作らないからな。


「後は卵に餡かけて、これで完成ネ! 本場の芙蓉蟹、たんもうするネ!」


「それを言うなら堪能だろ」


 満面の笑みで芙蓉蟹を差し出すコックに、俺は呆れ顔で突っ込みを入れた。料理の腕はともかく、日本語についてはまだまだ勉強が必要なようだ。

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