5ー9

 その後、茶碗蒸しを食べ終わってすぐに俺は席を立った。レジから声をかけるとすぐに喜美は出てきて、いつもと変わらぬ様子で会計をした。代金は2300円。昌平の分も含まれているので結構な値段だ。っていうか、半ば無理やり連れてこられたのに、何で俺があいつの尻拭いをしなきゃいけねぇんだよ。


「はぁ……。思ったより使っちまったな。またバイトして稼がねぇと」俺はため息混じりに言った。


「ん、バイト? 涼ちゃんバイト探してるの?」喜美が尋ねてきた。


「探してはない。もう半年くらい続けてるとこがあるからな」


「ふーん。そこ、辞める気はないんだ?」


「ねぇよ。何でだ?」


「いや、さっき岡君とも言ってたけど、最近結構忙しくてさ。1人くらいアルバイトの子雇ってもいいかなーと思ってたんだよね」


「だったら岡君を雇ってやりゃあいいじゃねぇか。本人が希望してるんだし」


 俺はそう言ってテーブルの方に視線をやった。岡君も出汁巻き定食を食べ終わっていたが、喜美から調理のコツを聞きたいとのことで店内に残っていた。メモ帳に熱心に何やら書きつけているのは、今食べた料理の感想でもまとめているのかもしれない。


「岡君はダメだよ。うちみたいな小さい店じゃ板前の修業なんてできないし、あたしはね、若い人の可能性を潰すような真似をしたくないんだよ」


 喜美が老齢の親方みたいな発言をした。お前いくつだよ。


「じゃあ昌平は? あいつ今牛丼屋で働いてるんだけど、ブラックで辞めたいっていつも嘆いてるし。飲食店の経験者ならちょうどいいだろ」


「あぁさっきの子ね。うーん、それもありだけど、あたしは別の人に来てほしいなぁ……。もっとうちの店に馴染んでて、気を遣わなくていい人っていうか……」


 喜美は人差し指を頬に当てながら、意味ありげな視線を俺に向けてくる。だが俺は華麗にその視線をスルーした。


「……そんな都合のいい奴がいればいいけどな。じゃ、俺は帰るから」


 俺は喜美と目を合わさずに言い、カウンターに背を向けて店を出て行こうとした。


「ね、涼ちゃん、今日、あたしが何で茶碗蒸し出したかわかる?」


 喜美が出し抜けに尋ねてきた。俺は怪訝そうに振り返る。


「知らねぇよ。他にサイドメニューがなかったからじゃないのか?」


「ま、それもあるんだけどさ。でもそれ以上の理由があって……。涼ちゃん、茶碗蒸し作るのに一番大事なことって何かわかる?」


「さぁ……。実演調理見てる限りだと、蒸す時の温度とか?」


「うん、そうだね! あたしはそれもひっくるめて、蒸し加減だと思うんだ!」


「蒸し加減?」


「そう! 蒸す時間が長くなると固くなるし、短すぎても柔らかくてトロトロになっちゃう。その間のちょうどいいポイントを探すのが一番大事だと思うんだ!

 でね、あたし、それって人の気持ちも同じじゃないかと思うんだ」


「どういうことだ?」


「誰でも自分の本心を全部表に出すわけじゃないでしょ。自分では気づいてない気持ちや、気づいてても出すのが恥ずかしい気持ちを胸の中にしまいこんでる。でもね、いつまでも気持ちを蒸したままだったらそのうち腐って、せっかく大事に温めてた気持ちが台無しになっちゃう。だから頃合いを見計らって取り出さないといけないんだよ」


「はぁ……。それで?」


「涼ちゃんも気持ちを出す番ってこと」喜美が人差し指を立てた。

「涼ちゃんにだって蒸したまんまになってる気持ちがあるはず。今こそ勇気を出してそれを取り出さなきゃいけないんだよ! あたしが前にしたみたいにね?」


「だから何の話だよ。俺には蒸してる気持ちなんて……」


 そこで俺ははたと動きを止めた。こいつ、今何て言った? 


「お前……『アレ』、冗談じゃなかったのか?」


「え、なになに、何のこと?」


 喜美はさも興味深そうに俺の方に身を乗り出してくる。いつも通りおちゃらけているようにも見えたが、その目にはどこか期待がこもっているようにも思える。


 俺は視線を落として考え込んだ。自分の中の蒸した気持ち。自分でも気づいていないか、気づいていても口に出すのが恥ずかしい気持ち。


 そうして思い返しているうちに、今日、この店に入ってから生じたいくつもの感情が走馬灯のように蘇ってきた。喜美の告白が冗談だと知った時の腹立たしさ、昌平が喜美にアプローチを仕掛けようとした時の落ち着かない気持ち、岡君が喜美と夫婦食堂を経営したいと言った時の動揺。それは今まで経験したことのない感情で、俺はその感情に何と名前をつければよいかわからなかった。


 でも、今喜美に指摘されて初めて、俺はようやくその正体を理解した。あぁそうか、今までになかったこの感情は――。


「……って、んなわけあるか」


 俺は即座に仏頂面で否定した。こいつのペースに巻き込まれて、危うくとんでもないことを口走るところだった。


 喜美がきょとんと首を傾げて俺を見返してくる。小動物のようなその表情は、人によっては愛らしさを覚えるのだろうが、俺は断じてそんな趣味はない。俺は思いっきり不機嫌そうな顔を作ると、努めて冷たい口調で言った。


「……俺には最初から蒸してる気持ちなんてない。お前が俺に何を期待してるか知らないけど、俺はそれに乗るつもりは絶対にない。バイトは辞めないし、これ以上お前と関わり合いになりたくない。それが俺の本心だ」


 俺は喜美と視線を合わせずに宣言すると、今度こそ背を向けて店を出て行こうとした。また引き留めてくるかと思ったが、意外にも喜美は声をかけてこない。


 俺は入口の前で少し立ち止まったが、すぐに振り払うように首を振ると、引き戸を開けて灼熱地獄の中へと戻っていった。

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