4ー3
だが、店内にはまだ伏兵がいた。本田さんが俺に話しかけてきたのだ。
「おめぇさん、喜美ちゃんのこと好きなんだろ?」
突然爆弾を投下され、俺は危うく水を吹き出しそうになった。咄嗟に呑み込んだ水が今度は気管の方に入り、涙目になりながらげほげほと咳き込む。
「俺も気持ちはわかるぜ」本田さんが頷いた。「まだ若いのに1人で店切り盛りして、そのくせいっつも明るくてニコニコしてて、苦労を全く感じさせねぇんだからな。あんないい子はどこ探したっていねぇよ」
「あの、誤解されてるみたいですけど、あいつとは何もないですよ」俺は呼吸を整えながら言った。「ただの食堂の店長と客ってだけで、それ以上の関係じゃないです」
「そうかい? にしちゃあ、随分と仲良さげに見えたけどな」
「あいつが勝手に懐いてるだけです。俺の方は別に何とも……」
「へぇ、そうかい。何とも、ねぇ」
本田さんが意味ありげに肩を竦めた。何だよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ。そんな言葉が喉まで出かかったが、強面の本田さん相手に面と向かって言う勇気はない。
そこへタイミングを計ったように喜美が戻ってきた。まっすぐに本田さんの元へ向かうと、カウンターにお盆を置く。
「はい、本田さんお待ちどおさま! 『ふるさとの味・天津飯』です!」
「おお、相変わらず美味そうだなぁここの天津飯は」本田さんが相好を崩した。「仕事で腹減らしてきた甲斐があるってもんだ」
「本田さんは現場仕事ですもんね。この天津飯で、疲れた身体をたっぷり癒してくださいね!」
喜美は満面の笑みを浮かべて言うと、「涼ちゃんの分もすぐ作るからね!」と言い、足早に厨房へ戻って行った。
俺は見るともなしに本田さんの前に置かれた料理を見つめた。とろりとした赤い餡がたっぷりかかった天津飯は確かに美味そうだ。和食、洋食に加えて中華まで作れるとは、喜美のレパートリーの広さに俺は頭が下がる思いがした。
「おう、何だ。おめぇさんもこの天津飯が食いたいのか?」
俺の視線に気づいたのか、天津飯に蓮華を入れようとしていた本田さんが尋ねてきた。
「あ、いや、そういうわけじゃないです」俺は慌てて手を振った。「ただ美味そうだなと思って。匂いもいいですし」
「あぁ。ここの天津飯は絶品だよ」本田さんが頷いた。「米と卵、それに餡が上手い具合に絡み合って飯がいくらでも進む。ただ、何か違和感があるのも事実なんだよな……」
「違和感?」
「あぁ、美味くねぇわけじゃねぇんだが。どうも本場の味とは違ってなぁ……」
本田さんは眉間に皺を寄せて言うと、蓮華で卵とご飯を掬って口に運んだ。時間をかけて咀嚼し、ごくりと音を立てて呑み込んだ後、「やっぱり何か違うなぁ……」と呟く。
「本田さんって中国に住んでたことがあるんですか?」俺は尋ねた。
「ん? あぁいや、そういうわけじゃねぇ。ただ、俺の嫁が中国人でな。家じゃ中華料理ばっか作ってたから、舌が本場の味に慣れちまってんだよ」
「でもここは日本ですから、天津飯の味も日本人に合わせてるんじゃないですか?」
「そうかもな。まぁ、美味いことには変わりねぇからいいんだけどよ」
本田さんはそう言って再び天津飯に蓮華を入れた。俺はその光景を眺めながら、本田さんのいう「違和感」とは何だろうと考えた。
だが、そこで腹の虫が抗議の声を上げ始めたので、俺はそれを抑えるのに必死で、そのうち天津飯のことは忘れてしまった。
その後、10分ほどして喜美は戻ってきた。眼前に置かれたプレートには、写真と全く同じ、いや、写真よりも遥かに食欲をそそる濃厚なクリームソースのかかったオムライスが乗っている。
「はい。涼ちゃんもお待ちどおさま! 『きのこたっぷり・クリーミーオムライス』です!」
喜美が溌溂と言った。俺は興奮を悟られないように無表情で頷くと、スプーンを手にしてオムライスに切り込みを入れた。滴るくらいクリームソースをつけ、一息で口に入れる。
口に入れた瞬間、卵とチキンライスが舌の上で溶け合う例の心地よい感触が広がった。今回はそこにクリームソースの濃厚さが加わり、さらにはたっぷりのきのこがアクセントとなって、上品で贅沢な味わいが口の中に広がっていく。
(ふうん……。思ったよりいけるじゃん)
俺は何食わぬ調子を装ってオムライスを咀嚼していたが、その美味さにはちょっとした感動を覚えていた。この出来栄えなら褒めてやってもいいと思い、隣で食事風景を観察しているであろう喜美の方に視線をやった。
が、そこに喜美の姿はなかった。あれ、と思いながら店内を見回すと、喜美は本田さんの左隣に立っていた。本田さんは天津飯を食べ終わっている。
「本田さん、今日の天津飯はどうでしたか?」
喜美が尋ねた。本田さんは腕組みをして天井を仰ぐと、唸り声を上げて言った。
「ううん……。悪かねぇんだけど、やっぱり何か違うんだよ。何が、って言われると俺もよくわかんねぇんだけどな」
「そうですかぁ。今度こそ! って思ったんですけど、やっぱり本場の味は難しいですね」
喜美ががっかりした顔でため息をついた。喜美が落ち込んだ姿なんて初めて見たので、こりゃ帰りは傘がいるな、と俺は考えた。
「あの、さっきも本場の味がどうこうって言ってましたけど、そんなに違うものなんですか?」
俺が尋ねると、喜美と本田さんが一斉にこちらを振り向いた。
「うん。あたしも中華は詳しくないんだけど、何か違うみたいだね」喜美が言った。「本田さん、うちに来ると毎回天津飯注文してくれるんだけど、どうしても納得してもらえるものが作れなくて。あたしもまだまだってことなのかな」
「いやいや、喜美ちゃんが悪いわけじゃねぇよ」本田さんが大きな手を振った。「俺の舌が特殊なだけで、普通の客には十分通用するんだ。そんなに気にするこたぁねぇよ」
「そういうわけにはいきませんよ! 常連さんを満足させられないんじゃプロ失格ですから!」
喜美がガッツポーズをして言った。これが漫画だったら、瞳と背景に勢いよく炎が燃え上がっているのだろう。
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