4ー2

 俺の下宿先は大学から2駅先にある。最寄り駅に到着した頃には18時を回っていたが、空はまだ明るく、昼の長さを感じさせる。ただしアスファルトから吹き上げる熱気はこの時間でも健在で、俺は汗で張り付いたTシャツを引き剥がしながら、しかめっ面でたまご食堂への道を歩いていた。


(……そういや、この時間にあの店に行くの初めてだな)


 俺がたまご食堂に行くのはいつもバイト帰りで、21時を過ぎてからの来店になる。だから店内はいつもガラガラで、暇を持て余した喜美のお喋りに付き合わされる羽目になるのだった。


(他に客いたら、飯だけ食ってさっさと帰れるかもな)


 そうなるといい、と俺は切望しながらたまご食堂へと向かった。




 店の前に到着したところで、俺は引き戸に耳を当てて店内の様子を窺った。客のお喋りは聞こえない。やはり誰もいないのだろうか。俺は少し逡巡したが、思い切って中に入ることにした。ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、すっかり見慣れたものになった光景が目に入る――。


 が、そこで俺は目を丸くした。カウンターに見知らぬ客が座っていたからだ。


 それはがたいのいい中年の男性で、カウンターの真ん中に陣取り、片足を膝に乗せ、両手を大きく広げて新聞を読んでいる。頭は角刈りで、ねじり鉢巻きを巻いたら大工にしか見えなさそうだ。眉間に皺を寄せた顔つきも相まって妙な威圧感を与えている。


 俺は奇妙な目でその客を見やった。この人、誰だ? 我が物顔で居座っていることからして初めての客ではなさそうだ。


「あ、いらっしゃーい!」


 厨房から聞き慣れた声がして、ぱたぱたと足音を立てて喜美が現れた。中年の客に気を取られていた俺は顔を隠す間もなく、気づいた時には喜美が目の前に立っていた。


「おーい、涼ちゃん? おーい!」


 顔の前で手を振られ、俺はようやく我に返って喜美の方を見た。つま先立ちして手を振っていた喜美は、俺と目が合うとにっこりと笑った。


「よかった! やっぱり来てくれた! 涼ちゃんってば、あたしが何回連絡しても全然返事してくれないから寂しかったんだよ?」


「いや、あの内容にどう返事しろっつうんだよ。俺には関係ない話ばっかだし」


「もー、涼ちゃんってばわかってないなぁ」喜美が人差し指を立てて振った。「『そうなんだ!』とか、『よかったね!』とか、一言返してくれるだけでも嬉しいもんだよ。なのに涼ちゃんってば全部既読スルーするんだから。優しさがないよねぇ」


「知らねぇよ。何で俺がお前に優しくしなきゃいけねぇんだよ」


 もはや恒例のようになった軽口の応酬をしながら、俺は早くも来たことを後悔し始めていた。やっぱり喜美は喜美だ。他に客がいようがいまいが全くぶれない。


「おう、喜美ちゃん、その子がもしかして噂の男の子かい?」


 前方から声がして俺は顔を上げた。例の中年男性が、新聞から顔を上げてこちらを見ている。


「そうなんです!」喜美が男性の方を振り返って頷いた。「名前は涼ちゃんって言って、今大学2回生なんです」


「へぇ……大学生ねぇ。喜美ちゃんが年下好みたぁ知らなかったな」


「まぁ、ホントは年上の方が頼りがいあって好きなんですけどねぇ。でも、年下もそれはそれで可愛いですよ。中身子どもなのに妙に大人ぶってるところとか」


「おい、何の話だよ」


 話が不穏な方向に進んでいる気がしたので、俺は急いで突っ込みを入れた。


「あ、涼ちゃんにも紹介するね。こちら本田さんって言って、うちの常連さんなんだ!」


「常連さん?」


「そう! オープンしたての時からずうっと通ってくれてて、一番古株なんだ!」


「へぇ……」


 道理でカウンターの真ん中で堂々と新聞を広げていたわけだ。俺は納得した顔で頷く。


「常連さんなんて口から出まかせだと思ってたけど、本当にいたんだな」


「当ったり前じゃん! こんなに美味しい料理が食べれて、しかも可愛い店長さんまでいるんだから、リピーターにならない方がおかしいって!」


「そういうこと自分で言うなよ」


 俺はため息まじりに言った。そこで本田さんががっはっはっと豪快な笑い声を上げる。


「こりゃいい。息ぴったりだな。まるで夫婦漫才を見てるみてぇだ」


「はい?」俺は眉を吊り上げて本田さんを見た。


「喜美ちゃんからよくあんたの話を聞いててな。オムライスなんて女子どもが食うような品ばっか注文しやがるってもんで、どんな女々しい野郎かと思ってたんだが、今ので安心したぜ。これならいつでも嫁に行かせられるな」


 本田さんは一人で納得して頷いている。俺は途方に暮れたように本田さんを見つめ、それから視線をずらして喜美を睨みつけた。


「……お前、あの人に変なこと吹き込んだんじゃないだろうな?」


「変なことって?」喜美がきょとんとして尋ねた。


「だから……その、俺がお前の彼氏だとか何とか……」


 声に出すのが恥ずかしく、後半はほとんど言葉になっていなかった。喜美が耳に手を当てて「え、何?」と尋ねる。


「……もういい。とりあえずオムライス1つ」


 俺はぶすっとして言うと、もはや定位置のようになったカウンターの右端の席に腰掛けた。っていうか、「とりあえずオムライス」って、これじゃ俺まで常連みたいだと自分で自分の発言が嫌になる。


「あ、新作のやつでしょ!?」喜美がぱっと顔を輝かせた。「『きのこたっぷり・クリーミーオムライス』。あれ送ったら涼ちゃんは絶対来ると思ってたんだ!」


 何だよそれ。見事に釣られたってわけか。俺は悔しかったが、だからといって新作の誘惑には抗えそうにもなかった。


「とりあえず腹減ってるから早くしてくれ。実演調理もいらないから」


「りょうかい! 本田さんの方が終わったらすぐ作るね!」


 喜美はにっこり笑って言うと、ぱたぱたと足音を立てて厨房へと引っ込んでいった。嵐が去った後のように店内が静かになる。やっと解放されたと思い、俺は安堵しながらお冷に口をつけた。後はスマホでも見て時間を潰すことにしよう。

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