3ー9
その後、5分ほどしてから喜美が順番に定食を運んできた。ご飯と味噌汁、冷奴と漬物というラインナップは卵焼き定食と同じだ。3等分された出汁巻きの隣には大根おろしが添えられている。和食の見本のようなその定食を前に、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「うわ、何これ、うま!」
横から茜ちゃんの声が飛び込んできた。さっそく出汁巻きを食べたらしく、目を丸くして口元を抑えている。
「本間に美味い……。出汁が口の中で溢れ出してきて、まるで汁を飲んでるみたいや。出汁の多い出汁巻きがこんなに美味いとは……」
大原さんも咀嚼しながら感嘆の息を漏らしている。出遅れた俺は慌てて箸を取ると、自分も感動を共有しようと出汁巻きに箸を入れた。
口に入れてすぐ、大原さん親子の反応の意味がわかった。卵の中から出汁がじゅわっと溢れ出し、かつお節と昆布の風味が口いっぱいに広がっていく。噛むたびに出汁が広がる様は、まるで出汁が口の中で躍っているようだ。卵焼きと同じように卵はふっくらとして柔らかく、出汁と混ざり合って濃厚な味わいを作り出している。
「母さんの出汁巻きも美味しかったけど、ここまでじゃなかったね」茜ちゃんが呟いた。「……母さんがこの店に来たら、もっと上手くなれたかもしれないのにな」
「……そうやな」大原さんがしんみりと言った。「俺は仕事が忙しくて、家族サービスもあんまりしてやれんかったからな……」
「そうだね。仕事の付き合いでいつも帰り遅かったし、休日も会社の人とどっか行って。母さんと2人でいつも文句言ってたよ。男は勝手だって」
大原さんは無言で項垂れた。茜ちゃんはちらりと父親の方に視線をやると、小声で続けた。
「……だから母さんが死んじゃった後、あたし、ずっと不安だったんだよ。父さんと2人で暮らしていけるのか、わかんなくて……。
でも、父さんが頑張って出汁巻き作ってるの見て、あたし、ちょっと嬉しかったんだ。父さん、ちゃんとあたしの好きなもの覚えてくれたたんだって思って……」
「茜……」
大原さんが意外そうに茜ちゃんを見た。茜ちゃんはばつが悪そうに視線を背ける。
「……じゃあ、何でグレたんや?」大原さんがそっと尋ねた。「俺はお前に不自由させんよう、精一杯やったつもりやった。何が足りんかったんや?」
「だって父さん、あたしの話全然聞いてくれなかったじゃん。勉強しろって口うるさく言うばっかりでさ」
「そりゃお前、勉強できんと後々苦労するからな。俺も若い頃勉強さぼっとったせいで、いい大学に入れんと、就職活動でも苦労したんや。お前にはそういう苦労をさせたくなくて……」
「だからなの? 父さん、あたしがちょっとでも成績下がるとすぐ怒ってたよね。高校から急に勉強難しくなって、ついてくの大変だったんだよ。最初はあたしも頑張ってたけど、成績は悪いままだった。なのに勉強はどんどん難しくなるし、父さんはガミガミ叱るばっかりで、あたしの気持ちなんか全然わかってくれなかったし……。何かもう、そのうち頑張るのバカバカしくなっちゃってさ」
「だから……学校に行かなくなったんか?」
「そうだね。クラス一緒だった子の中に、同じように勉強苦手な子がいて、その子と一緒に遊ぶようになってからかな。学校以外に楽しい場所あるって知って、学校行く意味がわかんなくなった」
「何や……。俺はてっきり、母親が死んだからお前がグレたもんやと……」
「そりゃ、母さんが死んだのはショックだったけど、それが原因じゃないよ。ただ学校がつまんなかっただけ」
茜ちゃんが何でもないように言った。大原さんが再び項垂れる。娘の気持ちを汲み取ってやれなかったことが非行の原因だったと知り、ショックを受けているのかもしれない。
「さてさて、お2人さん、ようやく殻の中身が見えてきましたね?」
急に横から喜美の声がした。俺が振り返ると、カウンターの横に仁王立ちし、得意げな顔で大原さん親子を見つめている喜美の姿が目に入った。
「今の会話でわかる通り、お2人は自分の本心を殻で隠しちゃってたんですよね。大原さんは、茜ちゃんに勉強で苦労してほしくないって気持ちを。茜ちゃんは、勉強についていけないもどかしさをお父さんにわかってほしい気持ちを。その本心が見えないままだったから、茜ちゃんはお父さんの言うことを聞かなくなって、学校に行かずに夜遊びをするようになった。
でも今、ようやく殻が割れて、本心が明らかになったわけですよね。だったらここで、お互いの気持ちを混ぜ合わせることができるんじゃないですか?」
大原さん親子はすぐには答えなかった。ちらりと相手の様子を窺い、またすぐに視線を落とす。
「……茜、お前、学校に行く気はあるんか?」やがて大原さんが尋ねた。
「まぁ、一応。今時中卒ってかなり不利だし」茜ちゃんがぶすっとして答えた。
「今の学校が難しいんやったら、転校してもええんやぞ。通信制の高校とかもあるやろうし……」
「いや、高校は普通に行きたい。友達と一緒に卒業したいし」
「そうか。なら学校に連絡しようか? 今から頑張る言うとるんで、何とか留年はさせんといてくださいって……」
「……うん」
茜ちゃんはそれだけ言うと、気まずさを払うように出汁巻きを食べ始めた。大原さんも少し迷った後、自分の出汁巻きに箸を伸ばす。
俺はそんな2人を遠巻きに眺めていたが、ふと思い出して喜美の方に視線をやった。喜美は歯を見せて笑うと、小さくVサインを作って見せた。全てあいつの思惑通りというわけだ。
俺は何となく面白くなくなり、喜美から目を逸らして残りの出汁巻きをかっこんだ。
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