3ー8
店の引き戸を開けると、カウンターに大原さん親子の姿が見えた。一番奥の席に茜ちゃんが座り、1つ間を開けて大原さんが座っている。その配置が、親子の隔たりを物語っているように見えた。
「あ、涼ちゃんいらっしゃい!」
ちょうど2人から注文を取り終えたらしい喜美が俺の方を振り返った。俺は何と返事をしていいかわからず、ぎこちなく頷いた。
「どう? ベストなタイミングだったでしょ?」こちらに駆けてきた喜美が得意げに囁いた。「あたしってば幸運の女神様に微笑まれちゃってるのかも?」
「ただの偶然だろ」俺は無表情で言った。「で? 出汁巻き頼んだのか?」
「うん。2人仲良くね。茜ちゃんは『真似すんな!』って怒ってたけど」
「そうだろうな。それにしても、よくすんなり連れてこられたな」俺は茜ちゃんの方を見やりながら言った。
「何とか宥めすかして連れてきたみたい。ま、注文の時以外は一言も喋ってないんだけど」
喜美がちらりと2人の方を振り返った。茜ちゃんは大原さんを無視してスマホに没頭し、大原さんは手持ち無沙汰な様子でテレビのニュース番組を観ている。
「……本当に大丈夫なのか?」俺は目を細めた。「あんだけ冷え切ってるのに、出汁巻き1つで何とかなるとは思えないんだけど」
「まぁまぁ見てなさいって」喜美が胸を張った。「で、涼ちゃんは何にする? やっぱりオムライス?」
「あ、いや……せっかくだから俺も出汁巻きにする」
「りょうかい! 出汁巻き定食3つ入りまーす!」
喜美が叫び、大原さん親子がこちらを振り返った。俺が立っているのを見ると、大原さんは頭を下げ、茜ちゃんはわずかに目を細めただけですぐに視線を外した。早くも来たことを後悔しながら、俺は茜ちゃんと反対側のカウンターの端の席に座った。
今日は最初からカーテンが開かれており、喜美はさっそく実演調理の準備を始めた。スマホに没頭していた茜ちゃんも顔を上げ、何事かという目で厨房を見ている。
「はい! ではこれから、たまご食堂名物・実演調理を開始します! 本日のメニューは『お袋の味・出汁巻き』。主に卵焼きとの違いを中心に解説していきますね!」
喜美が張り切って説明を開始した。大原さん親子は呆気に取られた様子で喜美を見ている。
「まずは材料。今回は3人前なので、卵を10個使います! まずは卵を割っていくんだけど、今回はたくさん卵を使うので、1つ1つ状態を確認していきます! 小さめの器を用意して、そこに割り入れてからボウルに移してくださいね! たまに血の混じった卵が入ってることがあるので、そういう状態が悪いのは取り除いてください!」
喜美はそう言って手のひらサイズの器を取り出すと、片手で器用に卵を割り入れ、流れるような動作でボウルに移していった。
「で、卵を合わせたら、卵焼きと同じように、白身と黄身が均一になるまでしっかり混ぜ合わせてくださいね! 器具は今回もホイッパーを使います! 混ざったら1回濾して、ムラをなくしてくださいね!」
前回と同じように、喜美はまず黄身を潰してから、ボウルの底にホイッパーを当てて泡立てないようにかき混ぜた。濾し器に流し込むと、さらさらになった卵液が現れる。
「卵液を混ぜ終わったら、ここでいよいよ出汁を投入します! 出汁は卵5個に対して1合、つまり180CCです!」
「え、そんなにようさん入れるんですか?」大原さんがびっくりした顔で尋ねた。「私が家で作るのは、せいぜい90CCくらいなんですが」
「出汁がたっぷり入ってる方が美味しいんですよ。ただその分巻きにくくなるので、ご家庭だと90CCか、60CCくらいでも十分だと思います。今回は270CCにしますね!」
喜美はそう言うと、四角いアルミ容器からお玉いっぱいに出汁を掬ってボウルに入れた。出汁の香ばしさがふんわりと鼻孔をくすぐる。
「今回はかつお節と昆布で出汁を取りましたけど、ご家庭なら出汁の素を水に溶かしてもらっても大丈夫です!
で、後は調味料ですね。今回は薄口醤油を15CC使いますけど、お好みで濃口醤油に変えたり、みりんを追加してもらってもいいですよ! ただ、味はこの時点で確認しておいてくださいね! ほんのり醤油の味がするくらいがいいです!」
説明をしながら喜美はボウルに薄口醤油を入れ、再びホイッパーでかき混ぜた。小皿に少量の卵液を掬って味を確認し、満足そうに頷く。
「味が決まったら、いよいよ焼いていきます! で、フライパンなんですけど、できれば銅製の物を使ってほしいんですよね」
「銅製って、普通のとどう違うの?」茜ちゃんが尋ねた。
「一般的な家庭で使われてるフライパンはアルミ製が多いんだけど、銅製のフライパンはアルミ製より熱伝導率がいいんだ。だから火が通るのが早くて、短時間で仕上げられるんだ!」
「そういえば卵焼きの時も、弱火でじっくり焼くより、強火で短めに焼いた方がいいって言ってたな」俺は口を挟んだ。
「そう! で、出汁巻きは水分が多い分、より強めの火で焼く必要があるんだ。だから銅製のフライパンを使うのがいいんだけど、慣れないと重くて扱いづらいから、最初はアルミ製のフライパンで火加減を強くしても大丈夫だよ!」
「はぁ。フライパン1つで違うもんなんですなぁ」
大原さんが感心した顔で頷いた。茜ちゃんはじっと喜美の手元を見つめている。
「というわけで、今回は銅製のフライパンを使います! 油を引いて中火で熱して、フライパンが温まってきたら、温度を確認するために箸で卵液を垂らします! ここで綺麗に線が書けたら火加減はオッケー! もし線が途切れるようなら、火を少し弱めてくださいね!」
喜美は言いながら、菜箸の先に卵液を付けてフライパンの上をなぞった。途切れることなく線が書けている。
「はい! ではいよいよ卵液を投入します! 卵焼きと同じように、卵液が半熟の状態で、奥から手前に巻いていきます! 水分が多い分、綺麗に巻けずに崩れちゃうと思うんですけど、卵液が接着剤代わりになってくっつくから大丈夫です! ただし、細めに巻くことだけは意識しておいてくださいね! 最初に細くしておかないと巻くたびに広がっちゃうんで」
卵焼きの時と同じように、喜美は左手を使って器用に卵を巻いていく。フライパンの重さを感じさせない軽やかな手つきだ。
「巻き終わったら、巻いた卵を奥にやって、油を引いて新しい卵液を入れて……卵液がなくなるまでこれを繰り返します! 卵液がくっつかないように、気泡は箸で潰して、端にある卵液は切って剥がしておいてくださいね!」
喜美はフライパンの縁をなぞるように箸で切ると、再び卵を巻き始めた。大原さんは喜美の動作に見惚れ、喜美の動きに合わせて自分も手を返している。卵を10個も使っているとさすがに巻くのにも時間がかかり、5、6回繰り返したところで、ようやくフライパンの半分を埋めるほどの巨大な出汁巻きが完成した。
「はい! これで焼き上がりです! さっそく切り分けたいところですけど、その前に巻き簾の上に乗せて形を整えます! ここは卵焼きと同じですね!」
巻き簾1つでは足りなかったらしく、喜美は巻き簾を2つ使い、上下から挟むような感じで出汁巻きを包んだ。そのまま30秒ほど寝かせ、その後でぱっと上の巻き簾を取る。
「はい! お待たせしました! 『お袋の味・出汁巻き』の完成でーす!」
巻き簾の下から現れたのは、この前と同じような綺麗な黄色をした出汁巻きだった。ふっくらしているためにかなりのボリュームがある。
「今から切り分けますから、もうちょっと待っててくださいね! ほら、涼ちゃん、その間に何か面白い話でもしてよ」
「いや、無茶ぶりすんなよ。俺も客だって言ってるだろ」
俺はぶすっとして答えた。実演調理の間はすっかり見入っていたのに、急に現実に引き戻されたような気になる。
「いやぁさすがプロですなぁ」大原さんが感嘆の息を漏らした。「あんな巨大な出汁巻きをあっちゅう間に完成させて……。とても私には真似できませんわ」
「向こうは商売なんだから、素人が簡単に真似できるわけないじゃん」茜ちゃんがぼそりと言った。
「ま、まぁそうやけどな。でも改めて調理してるとこ見ると、出汁巻きってこんな奥が深いもんやったんやなぁ」
「……うん。母さんは簡単に作ってたけど、巻くのとか絶対難しそう」
「そうなんや。俺も何回も挑戦したんやけど、どうしても途中で破れてしまってなぁ……。やっぱり普通の卵焼きで練習した方がよかったんやろうか」
「かもね。普段料理なんかしないくせに、いきなり難易度高いもの作ろうとするから……。焦げてカチカチになった出汁巻き食べさせられる方の身にもなってほしい」
「何やと?」
大原さんがじろりと茜ちゃんを睨んだ。茜ちゃんはぷいと顔を背ける。さっきまでろくに口も聞いていなかった2人が、今は普通に会話をしている。その光景が意外で、俺は早くも変化の予兆を感じ取っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます